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古い写真を訪ね歩く 4 〜高見澤宝輔さん・幸枝さんご夫妻を訪問〜①
佐久穂町中心部から国道299号を十石峠方面に車を走らせしばらくいくと、田んぼが広がる日当たりの良いエリアが現れる。その畑ヶ中にお住まいの、高見澤宝輔さん・幸枝さんご夫婦のお宅を訪問した。
[古い写真を訪ね歩く 4 〜高見澤宝輔さん・幸枝さんご夫妻を訪問〜]は、2部構成です。
戦後の地方改革がこの地でも
こんにちは。と訪問すると、エプロン姿で迎えてくれたのは、高見澤宝輔さん。昨年度もお話を聞かせていただいた。早速話が始まると、妻の幸枝さんも同席してくれた。
「こんなのよくあったよな。」と、笑いながら古びたアルバムを何冊か出してもらい、中を順番に拝見した。
ふと目にとまった写真に、トラクターに似た工事車両のような車が写っていた。
これは、トラクターですか?と尋ねると、幸枝さんが「これはブルドーザーだね。」と覗き込むように写真を確認した。
「昔ここらの開田に、ブルドーザーがきただよ。その時分、ブルドーザーなんて知らなかったよ。軍隊から復員してきたような運転士が下宿していたよ。畑ヶ中の民家で泊まってたなぁ、3人くらい。」幸枝さんは当時を思い出すように話す。
このブルドーザーは、米軍から払い下げになったもので、長野県に1台しかない特別なものだった。と、続けて宝輔さんが語り始めた。
当時の関係者が開田のために手配したが、地域の方の意見があったりと色々スムーズにことが進まず、このブルドーザーはしばらく動かないままだったそうだ。
使わなかったんですか!と驚くと、話にはまだ続きがあった。
「それから、ブルドーザーを次の地域へ回さねばならない時期が近づいてきて、催促がくる頃、話がようやく進み延期をお願いして開田工事が始まったんだ。」と。それを聴き、こちらもなぜかほっとした。
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そして、たった1台で、この畑ヶ中や海瀬エリア一帯の開田をこなしたことにも驚いた。
「結局は、ブルがなきゃできないもの。」と幸枝さん。
当時、日本の各地で開田が行われ、大きな規模のほとんどは『農林漁業資金』を使い借入をして行われた。
「開田では、穂積の発電所で使っている穴原の水源池から、“1000分の3勾配”という傾斜を使った水路を作り、大日向の境目あたりまで水を送った。その水源を使った理由としては、戦後東京は焼き野原だったから、電気を作っても使う人がいなかったからだ。」と話す宝輔さん。なるほど。と少ししんみり返事をする。
「お米を作って国民が食べた方がいいと言うことで国がやったんだけど、水をもらった(引いた地域の)皆さんが改良区を作って、『〇〇改良区』と開田を行った。農林漁業資金は、全体の工事費の6割の借入金を借りることができたが、4割は自分でお金を出すか、自分達で作業をやったんだよ。」
戦後すぐに仕事がなく、家で農業を手伝っていた青年団の若者たちが作業をしていたと話し、何枚かの開田に関する写真を紹介してくれた。
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当時、手作業で田んぼを平すのは途方に暮れる程大変な作業だった。
もう一つ、気になった写真は、木のない山で作業をしている人たちが写ったもの。
![](https://assets.st-note.com/img/1697692532049-6TAQ6k8fB5.png?width=800)
何をしている写真か訪ねると、宝輔さんは順を追って話しだす。
「終戦近く、山の木を利用して船まで作った。そのころ鉄はもう戦争で使うのが無くなってしまったため、飛ぶ飛行機がないからと、木で作って、中込原(現佐久市)の偽の飛行場へ並べておいたんだ。」
「戦中、戦後に都市の復興のため、盛んに木が伐られて山が裸になってしまったから、旧村総出で植林をやって、郡の植樹祭なども行われ役場の職員がみんな出て作業したよ。その時代は、町村合併が進み町有林が広く自転車で十石峠まで行ったりした。朝、家を6時頃に出て、現場には8時にやっとついたこともあった。」と続けた。
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私達にとって、本やテレビなどで知る当時の日本。遠い存在として捉えていた開田や植林。戦後の国をあげての動きが、写真にはリアルなものとして残されており、当時があってこそ、今のこの風景を作り出しているのだと、写真を隅々まで拝見させていただいた。
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高見澤さんご夫婦のお話は、2部構成となっております。
次回は、戦後の暮らしや地域振興の写真についてまとめていきます。
文・鈴木
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