三石辰雄さん芳子さんご夫婦の方言メモ
羽黒下駅を降りてすぐ、かつてここで旅館を営まれていた羽黒館がある。三石芳子さんに私たちが出会ったのは羽黒下サロンにお邪魔したときだった。芳子さんは、わたしたちの活動に共感してくださり、それ以来夫の辰雄さんの方言をメモし続けているという。書き溜めた方言はすでに6枚程。どんな想いで残しているのかお話を伺った。
様々な地域の言葉を聴いて育った辰雄さん
辰雄さんは小学校3年の時に両親がこの旅館を引き継ぐことになり、東町から越してきた。お姉さんと2人兄弟だが、両親が働いていたために、母の実家のある八千穂に幼いころから預けられることが多く、その当時は、辰雄さんのお母さんの兄弟13人の大家族で世代を超えた大勢の方言も聴いて育った。
妻の芳子さんは、佐久市で生まれ、母方の実家が旧佐久町だったので、祖父母の方言は耳に残っているそうだ。お2人とも実家に住む祖父母や両親の話す方言の影響は、大きいと話された。
方言メモをとる訳
芳子さんがチラシの裏紙に書くメモは今も増え続けている。朝起きてから、寝るまで、事あるごとメモをしているそうだ。
辰雄さんは方言をあまりに自然に使われるので、自分が話す言葉が方言だと意識が無い。書いておかないと「言ってない」と言われ喧嘩になってしまう。だから記録しようと思ったそうだ。
メモをとりはじめてから方言が気になり出したお2人。芳子さんからすれば、佐久市と佐久穂町も違う。辰雄さんは、方言が標準語かどうかを辞書で調べるようになった。標準語とは語尾が違っていたりする。
辰雄さんは、飯田市でも過ごしたことがあるから、たまに飯田の方言も混じる。飯田市で手に入れた方言の表を見たりもした。
辰雄さんの東町にいた祖父母は標準語に近い方言だった。だが、八千穂の祖父母の話す方言が、両親の話す言葉よりもかなり自分の中の言葉への影響が大きいことに気づいたそうだ。
子どもの頃使った方言
お二人が育ってきた時代は、昭和20年半ば高度成長期、団塊の世代。東町も花街などが栄えていた。辰雄さんのおじいさんは、東町で足袋屋を営んでいた時代もあった。
河原の石積みの間からカガミッチョ(とかげ)が顔を出した。パッチン(めんこ)が流行り、友達とはオシャラカシテ(冷やかして)メロンカン(あっかんべー)をして別れることもあった。ジャンケンのことをコンチャヤイヤといって、グッスイ、チキリ、ハイヨと言った。シンカラカイテイテ(けんけんして)石けりもした。
その頃のカメ虫は、ヘップリ虫と呼んだ。ヤカン蜂(スズメバチ)は、やかんみたいにお尻が大きいからヤカン蜂というそうだ。
宿での生活で思い出したエピソード
宿をやっていた時に、母が「おしずかに食べてください」と伝えたら、お客さんに驚かれてしまったそうだ。こちらの方言では、「ゆっくり食べてください」という意味だった。
薪のお風呂の時代は、旅館の風呂を沸かすのは、辰雄さんの仕事だった「どんなアンベー(塩梅)だい」と湯加減を聞いたそうだ。
芳子さんは辰雄さんの言葉の語尾がお気に入り
芳子さんに「疲れたってなんていう?」と聞かれた。私が「こちらの方言だとシンノって言いますね」と答えると、辰雄さんは「くたびれた」をくたびれてえ、「お茶を飲もう」をお茶飲まずいとかお茶飲まざというそうだ。
辰雄さんは、面白いことを言って自分風に変えることもあり、「ちょっと違ってちょっと面白いの。」と芳子さんは笑顔になる。「監視されてるみたいで話しにくいんだよ。」と辰雄さんは苦笑い。
世代を超え、それぞれの中で生き続ける方言
方言は、進化している。自分の世代では使うけど、息子は使わない、おじいやん、おばあやんは、使っていたけど、孫たちは、使わないというものもある。
辰雄さんが、「佐久穂町むかしたんけん館」で機織りをしたとき、保育園児に「つるのおんがえし」の話をしたら、親子とも知らなかったということがあったそうだ。昔話も方言も時代と共に消えていく。少しでも伝える機会があれば、伝えたいと思った。
芳子さんは、明るく楽しそうに辰雄さんの方言を教えて下さる。
とても仲が良い夫婦の関係が見えた。芳子さんと辰雄さんから聞いたことのない方言も飛び出して思わず、笑いがこぼれる。まだまだ芳子さんの方言メモは、続いている。
文 大波多 志保
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?