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おとなになるってどんなこと? より

正しく行動すれば、
胸のつかえはなくなる、
そう感じました。

だからこそ、自分の感覚がとても大事なのです。
感覚はものごとの裏にあるなにかを見せてくれるものです。
また、自分の感覚をほんとうに信じることができたら、きっと他の人にとがめられたり異様に思われないようにな「普通のふり」
をある程度は他者への思いやりによってできるようになると思います。
それでもいざというときゆずれない線が出てきたら、きちんと言えるようになります。
一方、普通にふるまっていたからといって、なにかから救われることなんて一切ないと思います。
がんばって普通にしていたら、だれかがあなたにほんとうにほしいものをくれるということも養ってくれることも多分ないと思います。



吉本ばなな/ちくまプリマー新書
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時折、自分の美意識や、人の道のようなものから足を踏み外した行動をしてしまいそうになる。そうゆうときは大抵理由が明確で、「お金」に困る時である。お金のためなら手段を選ばない。ピュアであるとか、清廉潔白だとか、そんなものは、くそくらえだと、そうゆう心理状態になるときだ。

学生のときに私は正に、その自分の美意識に反することをやろうとして、結果、思い留まったこがある。その日の日記を読み返すと、こう記してあった。

「たぶん、わたしのなかの、神さまみたいな美しい何かが、わたしをひきとめてくれたように思う。今日食べたものや、ケイタイの充電の残り方さえも、胃の不快感さえも、すべては、私に知らせてくれる何かだった気がする。」

そして、興味深いのはこのとき偶然にも、美しい心根を持つ友人に街でバッタリ出くわしたことだ。私は、彼に出会い、「こんなことで自分の心を曇らせるわけにはいかないな」とぼんやり思い、そのまま、まっすぐ家に引き返したのだ。その友人に会えて本当に良かったと後になって思う。
その友人は、昨年、自ら命を経ってしまった。もしかしたら、あの友人が生きるには、とてもとても生きづらかったのかもしれない。本当に繊細で、雨が降ると裸足になって雨の中に佇むような人だった。そんな人が、「普通」の人と、資本主義の世界で生きることは苦痛でしかないのかもしれないな。と想像を巡らせる。

電車に揺られて、周囲の人間を見ていると度々、吉本ばななさんの言葉が頭をよぎる。こんなにも疲れている人で溢れかえっている。目がくすみ、疲れきっていて、空っぽだ。
人は、正しく行動していないから心身が疲れきってしまうのかもしれないなと。自分の行動が、自分にとって善であったときに、すべてが吹き返すように身体が動く瞬間がある。何故、精神や身体はそれをあらかじめ知っているのだろう。
それが遺伝子として決まっていて、細胞や神経にとって良いことなら、もう少し自身の性質に誠実でいたいと思う。

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