山田耕筰の歩みと「音樂は軍需品なり」から考える「コロナ禍における音楽は不要不急か」という問い
もうすでに多くのひとびとは忘れはじめているかもしれない。「音楽(あるいは演劇)には力がある」。2年前に音楽家や芸術家たちが叫んだ言葉である。
コロナ禍が始まって最初に停止したもののひとつがコンサートをはじめとするイベントだった。一演奏家であるわたしの経験では、2020年の1月のコンサートではじめて演奏者にマスク着用が義務付けられ、2月からは公演の自粛が始まり、3月から4ヶ月ほどの「休業期間」が始まった。
多くの音楽家たちが路頭に迷った。もちろんわたしも例外ではない。2020年3月の収入は当初0円だった(その後キャンセル料の支払いをしてくれた団体もあった)。4月の中旬からはスペイン料理屋や中古CD店でアルバイトを始めたものの、本業の再開は6月末で、その間の事業所得は(わずかなキャンセル料をのぞけば)まったくない。経済的に本当につらかったし、それが精神的な不安も生んだ。1日も早く給付金が欲しかった。
そういった状況のなか、twitterをはじめとするSNS上でしきりに叫ばれたのが「音楽や演劇は不要不急なのか(→いやそうではないはずだ)」「音楽には力がある(→だから将来に音楽を繋ぐためにも音楽家に補償をすべきだ)」といった意見である。音楽家や演劇人はもともと声の大きな生き物である。こういった言葉が功を奏し、その後コロナ禍において、音楽や演劇といったパフォーミングアーツの分野に多額の税金が投じられた。2020年の「文化芸術活動の継続支援事業」」や2021年の「ARTS for the future!事業(コロナ禍を乗り越えるための文化芸術活動の充実支援事業)」=通常AFFなどが代表的であるが、そのすべてをあげたらキリがない。これらの支援事業や補助金によって、むしろ2021年のクラシック業界はコロナ禍前よりも盛んになったとも言えるかもしれない。改善しなければいけないいくつかの制度上の問題があったものの、単なる損失の補填ではなく、新たな公演をした場合に支援をするというシステムが、パフォーミングアーツの場を活性化させた(ただし外国在住アーティストの招聘困難、相次ぐ出演者の変更や公演中止によって多くの音楽関係者が疲弊したことは間違いない)。特に、大規模な既存団体だけでなく個人や小規模団体も対象とした点は、この業界の現実に寄り添ったパッケージとなっており、非常に良いことであったと思う。音楽や演劇は不要不急ではなく、それらを繋ぐ必要があると、国や地方自治体が税金というお墨付きを与えたのだ。
わたしもその恩恵を大いに受けて、単に仕事の数や単価が増えて収入が増えただけでなく、自分のやりたいことをさまざまな形で実現させてもらった人間である。だから、わたしはもちろんこの手の支援事業に感謝こそすれ、批判をするつもりはまったくない。ただし、ただ手放しで喜ぶのではなく、この状況についてもう少し深く考えるべきだとは思っている。
すなわち、この状況を客観的に見るために、歴史を参照すべきではないか、ということである。
近代における非常時の歴史ということを考えたとき、真っ先に思い浮かぶのが「戦時中」だ。先の大戦の最中においても音楽は不要不急かということは大いに議論されたようである。このとき矢面に立って楽壇の必要性をアピールしたのが、あの山田耕筰だ。
山田耕筰(1886-1995)は日本の西洋音楽史におけるパイオニアだ。我が国ではじめてオーケストラのために作品を書いた作曲家だとも言われている。
東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を卒業後、三菱財閥・岩崎小彌太の支援によってベルリンに留学。カール・ヴォルフやマックス・ブルッフのもとで作曲を勉強し、1912年には日本人による初めての交響曲である《交響曲へ長調『勝鬨と平和』》を作曲する。
帰国後は国内初の本格的なオーケストラを組織するが、自身の派手な恋愛事情によってパトロンである岩崎を怒らせ、オーケストラは解散する羽目になってしまう。その後アメリカに渡った山田は、カーネギーホールで自作のコンサートを開いて成功をおさめるなど、精力的に活動。再び帰国すると近衛秀麿と共に新しいオーケストラを立ち上げるが、山田が起こした金銭関係のトラブルによってオーケストラは分断されてしまう(このとき離脱した者たちで作られたのがNHK交響楽団の前身である新交響楽団である)。このことによって多額の借金を抱えるが、数年後には《赤とんぼ》《からたちの花》などの童謡を次々と生み出して大ヒット。国民的作曲家になる。
良く言えば人間らしい、悪く言えばあまりにだらしない性格が重大なトラブルを引き起こすものの、すぐに奮起して別の形で成功を手に入れるその姿勢は力強い。
しかし、問題は、ここからなのだ。
1937年、山田51歳で日中戦争が勃発すると陸軍報道部嘱託(将官待遇)に任命され、翌月、漢口攻略戦に従軍する。1940年には「日本演奏家協会」を設立して会長に就任。そして翌年8月には協会の内部に約2000人からなる「音楽挺身隊」を組織する。これは演奏家たちを全国各地に派遣し、地元の一般人の生活のなかで音楽を演奏するというものだ。山田もみずから挺身隊のメンバーらと共に東北地方などへ足を運んでいる。さらに同じ年の9月に行われた「日本音楽文化協会」の創立総会ではその場で副会長に任命される。警視庁が主導する「日本演奏家協会」に対して、「日本音楽文化協会」は情報局主導の音楽組織だ。この両者が1943年に統合され、翌年に会長に就任することによって、山田は楽壇のトップとなるのである。
「日本音楽文化協会」の総則には「本會ハ肇國ノ精神ニ基キ音樂文化ヲ内外ニ宣揚スルコトヲ目的トス」と書かれている。音楽によって国威発揚を促すことが目的ということだ。こういった決まりが先か、創作が先かは分からないが、この頃に作曲した作品には、《聖戦讃歌『大陸の黎明』》というカンタータ、2曲の《米英撃滅の歌》、《撃滅の誓》《サイパン殉國の歌》《起て一億》《英霊葬送曲》《壮烈特別攻撃隊》《立てや非常時》など、おどろおどろしい題の声楽作品が並ぶ。森脇佐喜子によると、山田はこういった作品を全部で107曲書いているそうだ(『山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか』(1994年、梨の木舎、23頁))。107という数は「書かされた」にしてはあまりに多すぎる。
山田の活動は作曲にとどまらない。『山田耕筰著作全集』(全3巻、岩波書店、2001年)に掲載された論考のタイトルをいくつか見ていくだけでなかなかなものだ。「國民音樂の樹立」「音樂家の臨戦体制——音學挺身隊について」「大東亞戦爭と音樂家の覺悟」「大東亞音樂興隆に」「大東亞音樂建設の第一歩」「決戰下樂壇の責任」「猶太人(引用者註:ユダヤ人のこと)に酷似する支那民衆の性格」「米英撃滅の爲の音樂文化戰線の確立強化」「音樂の總てを戰ひに捧げん」「國民音樂創造の責務」「敵米國の音樂觀と我等の進撃」……。
特に敵国アメリカに対しての過激な思想、というより「ヤバい発言」を引用する。1944年に書かれた「敵米國の音樂觀と我等の進撃」のなかで、山田はジャズやユダヤ人を批判(というよりもはや誹謗中傷である)したあと、このように続ける。
さらに山田は《米英撃滅の歌》という刺激的なタイトルの軍歌を作曲した。これは松竹映画『米英撃滅の歌』の挿入歌であり、作詞はイサム・ノグチの父である詩人の野口米次郎だ。『世界軍歌全集』や『日本の軍歌』の著者である辻田真佐憲氏のホームページ「西洋軍歌蒐集館」では「間違いなく、日本軍歌中最凶最悪の歌詞を持つ曲。」として紹介されている。
かつてカーネギーホールで自らの作品をあたたかく迎えてくれたのは、アメリカ人たちだった。山田はどのような思いで「敵米國の音樂觀」を、あるいは《米英撃滅の歌》を書いたのだろうか。戦後、山田耕筰はとうぜん批判される。戦後すぐの1945年12月の東京新聞紙上で、音楽評論家の山根銀二(音楽之友社のポケットスコアの解説でよく名前を見かけるあのひと)から「典型的な戦争犯罪人」と名指しされる(東京新聞、1945年12月23日「資格なき仲介者」)。いわゆる「山田耕筰戦犯論争」だ。批判は山田の死後も続き、1994年には『山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか』という書籍も出版されている。
一方で、彼の言動を擁護する声も少なくない。たとえば音楽挺身隊に所属した声楽家の畑中良輔(1922-2012,戦後は東京芸術大学教授や新国立劇場初代芸術監督を歴任)は、山田についてこのように回想している。
この「音楽は軍需品なり」というものは、1941年7月28日に行われた講演会で大本営海軍報道部の平出英夫という大佐が発した言葉である。この言葉が翌月に音楽挺身隊を組織する山田の背中を押すような言葉だったことは間違いないだろう。山田を筆頭に音楽業界では「音楽は軍需品なり」という言葉がしきりに叫ばれるようになる。音楽は贅沢品ではなく軍需品なのだ、どんなに厳しい状況でも音楽は必要だ、と。
戦時中の山田の言動が、彼の本心からくるものだったのか、あるいは音楽家たちを助けるためのいわば方便だったのか、それは分からない。だからわたしはここで性急な結論を述べたいわけではない。もちろん現代が戦時中だと言いたいわけでもない。現在を過去へと安易に代入することは危険なことだ。
ただし、歴史のことは忘れずにいたい。我が国には、非常時に掲げられた「音楽は軍需品なり」というスローガンが音楽家の地位を守った歴史があるのだ。愛国行進曲のレコードは百万枚と売れたようだ。ひとびとは音楽によって鼓舞され、戦争に突き進み、殺し、殺され、差別し、差別され、虐待し、虐待された。
非常時の音楽は不要不急であるのか。あるいは非常時において不要不急な音楽は、存在してはならないのか。
結論が出なかったとしても、この問いは常に胸に抱き続けたいと思う。
[参考文献]
『山田耕筰著作全集』全3巻、岩波書店、2001年
丘山万里子『からたちの道』深夜叢書社、2002年
後藤暢子『山田耕筰 作るのではなく生む』ミネルヴァ書房、2014年
森脇佐喜子『教科書に書かれなかった戦争 Part 16 山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか』梨の木舎、1994年
辻田真佐憲「<朝ドラ「エール」と史実>「音楽は軍需品なり」は実話。そして木枯のモデルも“軍部に利用されていた”」https://news.yahoo.co.jp/byline/tsujitamasanori/20201002-00199896
NHK Eテレ『時代を楽譜に刻んだ男 山田耕筰』2015年
シラス『辻田真佐憲の国威発揚ウォッチ【講義回】あなたの知らない山田耕筰 近代日本音楽の偉大な確立者、楽壇の戦犯、そしてセクハラ常習犯?』2021年
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