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ひとよりえらかった音楽について

 浜松で仕事があった。いまはこだまに乗って帰るところだ。本当は今月締め切りの原稿がふたつあって、いますぐそれに取り掛からないといけないのに、缶ビール(ぷらっとこだまの引換券で手に入れた静岡麦酒)を飲んでいたら、今日の空き時間に行った浜松楽器博物館で考えたことが頭から離れない。
 お酒も入っているところだし、今は仕事用の原稿は置いておいて(ホントウニイイノ?)、noteでも書いてみよう。

 浜松楽器博物館は小中高生のときによく行ったが、大人になってから行くのは今回が初めてだった。あのときは「よくわからんけど、スゲー!!」って感じだったけれど、小賢しい知識なんかついたいまは、やっぱり見える景色が違う。これが18世紀のまっすぐなF管のオーボエね、とか、1896年の低音弦楽器にはすでに金属製のギアード・ペグが付いているのか、などなど。

 でも、そんなことよりも、酔った勢いでおおざっぱに考える、大きくて大事な話がある。

 浜松楽器博物館の最大の魅力は、西洋の楽器の歴史が、世界中の楽器の歴史といっしょくたに展示されているところだ。それぞれの国や地域が干渉しあって出来上がったいまの楽器のかたちも分かるし、何よりも岡田暁生が「西洋音楽も民族音楽のひとつである」って書いていたのを強く思い出す(もっともそのあとに「世界最強の民族音楽だ」と続けているのがちょっとサブかったけれど……)。

 ともかく今回わたしが思ったのは、楽器あるいは音楽というのは、むかしはどの国でももっと、不確定なものが求められていたのだ、ということだ。
 むかしの楽器は動物の死骸(骨とか皮とか)などの自然のものを基盤に作られていることが多く、それはすなわち、楽器のサイズを作者が自由に決めることができないということあらわす。もうちょっとここがこの形で、とか、もちろん多少削ったりすることはできるだろうが、そのすべてを決めることはできない。
 そしてむかしの楽器には、それぞれがある程度発達しても、ノイズなどをわざと出させるようにされていたものが少なくない。ノイズはもちろん不確定なものである。たとえばトランペット・マリーンという西洋の古い弓奏楽器は、駒が胴体から少し浮いて作られており、わざとビリビリとした音が鳴るようになっているという。もっと近代的な楽器だと、フォルテピアノにはファゴットのストップが付いていて、これはジョン・ケージのプリペアド・ピアノよろしく弦とハンマーの間に紙が挟まって特殊な音色を生むという代物だ。西洋以外の楽器ならば、日本の尺八にせよなんにせよ、ノイズが必ず発生する楽器というのが想像に難しくないだろう。

 不確定だということは必ずしも自由を意味しない。むしろ不自由になる場合も多いだろう、なんて言ったって、自然に規定されているのだから。

 大事なのは、いまよりももっと、ひとの力以外のことに左右されていたということだ。
 いつからひとは、自然よりえらくなったのだろう。
 いつからひとは、音楽よりえらくなったのだろう。

 人間にできることは技巧を高めて音楽をコントロールすることではなく、せいぜい、音楽や自然から何かを引き出すくらいのことではないのか。

 芸術というのは、言葉を使って簡単に伝えられないような不確定なものを表すものだろう。何かを高めてそれをひとつの言語として操り、それで持って確実な何かを伝える、なんていうのは、あまりにおこがましいんじゃないか。

 そういえば僕は、ソクラテスがプラトンの『国家』で述べた、音楽についての「何か大きな魔力」という言葉が好きなのであった。
 そして、自然倍音列に音色が規定されるナチュラルホルンとか、自然の素材で出来たガット弦とか、そういうものが好きなのであった。

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