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2022年を振り返る。「剣はペンよりも強し」を認めてしまう社会について。

 2022年を振り返る。それは「暴力」の年だった。暴力が「起こった」年ではない。もちろん暴力は2022年より前から常に起こり続けていて、残念ながらその多くはいまでも続いている。わたしはミャンマーやアフガニスタン、ソマリア、ウイグルなどで起きていることを、ウクライナのそれと比べて過小に言いたいわけではない。わたしが言いたいのはこういうことだ。2022年は、暴力の「意味が変わってしまった」年だったのである、と。

 今日からちょうど半年前、安倍晋三元内閣総理大臣が銃撃され、死亡した。被疑者は特定の宗教団体(旧統一教会)に対して恨みを持っていて、安倍氏を殺害したのである。彼は「安倍元首相ではなく、統一教会のトップ、ハンハクチャ総裁を撃ちたかった。でも、コロナで日本に来ないので、統一教会と深い関わりのある安倍元首相を撃ちました」と供述した。彼が撃ちたかったのは安倍氏ではなく、旧統一教会だった
 もちろん、社会は彼を断罪し、彼がおこなった犯罪行為を批判した。紛れもない犯罪行為であり、そこにはなんら弁明の余地はない。
 しかし同時に、社会は彼の行いを正当化した。すなわち社会は、殺人を犯すことによって問題を解決する、という立場に与したのである。彼の発言によって政治と宗教における癒着関係が露呈すると、メディアや世論は徹底的にそれを追求し、多くの膿が出された。不健全なその関係は(程度については脇に置くにせよ)以前よりはクリーンなものとなり、そして旧統一教会による問題は世間から注目された。さらに、悪徳な新興宗教に苦しめられているひとびとを救うため法律まで成立した。もちろんそれらに関して足りない部分はいくらでもあるだろう。しかし、事件前と比べれば、より良くなった(あるいはマシになった)ことに間違いはない。そう、暴力は社会をより良くしたのである。被疑者の願いは達成されてしまったのだ。
 こんなことを認めてしまってはならない。暴力が社会をより良くするなどという前提はあってはならない。なぜなら、それが成り立つならば、正義の名のもとに行われる暴力を許し、あるいは新たな暴力を誘うからである。
 多くの国民は忘れたかもしれないが、国葬儀前の9月21日、こんなニュースが流れた。

首相官邸近くで焼身自殺図る? 手書きの「国葬反対」

 70代の男性が、国葬反対という主張をするために、自ら油をかぶって焼身自殺を試みたのである。このニュースは一時SNSでも話題にはなったが、これによって社会が変わるということはなかった。この行為が何の意味も持たなかったこと自体には溜飲が下がったけれども、こんなことが起きてしまう背景には、暴力が社会を動かした、しかも良い方向に動かしたという確固たる現実があってしまったゆえではないかと、わたしは考える。

 今回の銃撃事件に対して、社会はどのようにすればよかったのだろうか。何度も繰り返すけれども、暴力によって社会がより良くなるという事例を作ってしまうことは、絶対にあってはならないことである。一方で、露呈した問題について何の対応もしないべきだったかというと、それはそれでふさわしいことではないだろう。ここから明確な結論を導くことはできないが、少なくとも、なんとなく「今回の事件のおかげで社会の膿が出て、少し社会がマシになったよね」などという思いを抱いてはいけない。さまざまなものに対して寛容であることは大事だけれども、それと同時に、ダメなことに対してそれはダメだとはっきり言うことは何よりも大事である。わたしたちは暴力を認めてはいけないのだ。

 暴力に対する冷たさが足りない、ということが露呈するニュースは昨年もうひとつあった。重信房子元日本赤軍最高幹部の釈放(5月28日)だ。日本赤軍は武装闘争によって世界革命を起こそうとしたテロ組織である。昨年は、日本赤軍がイスラエルのテルアビブ空港で無差別乱射事件を起こしてからちょうど50年の年でもあった。その年に、テロ組織で最高幹部まで務めた重信が釈放されたのである。
 癌に侵された老婆となった重信房子に対し、社会はなまぬるかった。社会は改めて鋭く批判するでもなく、あるいは完全に無視したわけでもなかった。ただただやんわりとしていた。彼女の発言や手記もまた、なまぬるかった。自らの行いを正当化するでもなく全否定するでもない曖昧な言葉たち。そこには暴力が持っていた強さは失われていた。しかしそれは暴力から生まれたものに他ならない。重信の発言を、批判的な視点少なくほとんどそのままに掲載した新聞もあり、それには駐日イスラエル大使が抗議を出した(「テロを美化」 駐日イスラエル大使、重信房子氏に反論/毎日新聞)。当たり前だ、何にも関係のない民間人が正義の名のもとで殺されたのだ。その事件について語るときに、やんわりとした態度を取ることは許されないだろう。問題は新聞ではない。この日本の社会全体が作り出すやんわりとした空気だ。わたしたちは何か大事なことを忘れてはいないか。

 2022年、日本社会の暴力に対する空気は、非常に良くない方向へ傾いてしまった。もちろん国民全員が「暴力は良くない」と声高に叫ぶ必要はないにせよ、それが認めてはならないものだという認識を常に忘れずに持ち続けることは、とても重要なことである。

 わたしはこんな状況でさえも、社会をより良く変えるものが、暴力ではなく、言葉や芸術であってしかるべきだと信じたい。2023年が少しくらいマシな年になりますように。そして再び、ペンが剣よりも強くなりますように。

令和5年1月
布施砂丘彦


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