見出し画像

室内楽版ブルックナーはなんのため

 本日オンラインで開催された「ブルックナーレクチャーコンサートVol.2 「私的演奏協会」とその編曲」にて、事前に以下の質問をお聞きしておりました。回答を用意しておりましたが、話す機会がなかったため、こちらにアップします。(有料のイベントでしたが、結局話していない内容なので、無料でアップしても問題ないでしょう。)
 喋るための原稿なので、読みにくいかもしれません。ご容赦ください。

質問
「ブルックナーの《交響曲第7番》において、原曲と室内楽版では、それを演奏する際に違いがありますか?」

 みなさん初めまして、コントラバス奏者の布施砂丘彦と申します。なぜわたしがここに呼ばれたかというと、おそらく、ブルックナーファンだからです。ご覧の通り、今日は自前の「ブルックナーTシャツ」を着ております。
 わたしはブルックナーの「専門家」ではありません。プロの演奏者として、そして、「ブルックナー・アマチュア」として、すこし「おおきな話」をしたいと思っております。

 さて、室内楽版のブルックナーを演奏するのは、わたしにとって、今回が初めてです。それから、今回の演奏会のためのリハーサルは来週からですので、まだ始まっておりません。ですから、今回お話するのは、この楽譜を使って、「練習してみて」気づいたことについてです。

 まず、「編曲もの」におけるコントラバスのパート譜というのは、「私的演奏協会」や「ブルックナー」に限らず、オリジナルのものと大差ありません。例えば管楽器は数も種類も減っているので、それを補うため、残された管楽器や、あるいはヴァイオリンやヴィオラ、チェロなんかは普段と違うことをしなければならない。しかし、コントラバスというのは、いわば「通奏低音」ですから、編成が変わったとしても、その役割というものは基本的に変わらないのです。実際、今回の譜面も、普段オーケストラで弾いている楽譜と比べて、大きく変わるところはありません。

 しかし、家で練習していると、同じはずの楽譜が、全く異なって見えてくるのです。それはなぜか。

 普段オーケストラの中でブルックナーを演奏するということは、
コントラバスであれば、8人のなかのひとりであり、
弦楽器で考えれば、60人のなかのひとり、
オーケストラ全体で考えると、80分の1くらいの、いわば「有機的なパーツ」であるわけです。すなわち、ブルックナーの交響曲は「マス」なのです。
 ブルックナーの交響曲と聞いてみなさまが抱くイメージとして、たとえば「大きな教会にある、巨大なパイプオルガン」だとか、もっと抽象的なイメージだと「宇宙」や「大自然」という言葉も出てくると思います。
 そのなかで、オーケストラのなかのひとりひとりは、「パイプオルガンのストップ」だとか、「大宇宙のなかのひとつの星」だとか、「深い森のなかの一枚の葉っぱ」とか、そういう要素であるのです。これは同じ時期の、例えばブラームスやマーラーの交響曲とはまったく違います。ブラームスやマーラーは、演奏しているとこちらもアツくなって、いわばひとりの「個人」として作曲家に、オーケストラに、立ち向かうことも可能なわけですが、ブルックナーの場合は、「個人」の感情とかそういうものではなく、もっと巨大で、「パブリック」なものであるのです。そう、「公共的」と言ってもいいかもしれません。

 しかし、今回演奏する私的演奏協会版でのブルックナー演奏は、全く異なるものです。
 この作品の多くの演奏例と同じく、今回の演奏会では指揮者がいません。
 わたしは、「マス(全体)の中のひとり」ではなく、また「それらの代表者」としてでもなく、「親密なひとりの個人」としてこの作品に向き合うことになります。具体的に言えば、このように演奏したらヴァイオリンにどう影響を与えるか、だとか、ホルンとどのようにアンサンブルするか、といったことです。
 我々は、この作品の演奏において想定されていたシェーンベルクの弟子ではないですから、少ない人数で演奏することによって、当然、演奏の個性が出てきます。

 すなわち、オーケストラで演奏することと、室内楽版で演奏することでは、演奏者の心意気(具体的に言うと、アンサンブルの比重)が変わり、実際、聴こえてくる音楽の趣向も変わってくるでしょう。


 さて、問題なのは、これが編曲者たちの意図ではないということです。

 彼らは、(パネリストのお話にもあったように)作品の構造を抽出して伝えることが目的でした。すなわち、作品の内側に「本質」があり、オーケストラを使わなくとも、その「本質」を見ることができるというかたちです。
 しかし、現代の聴衆は、作品の構造を見るために、わざわざ室内楽版のCDを探す必要はない。オリジナルであるオケのCDの方が簡単に手に入りますし、楽譜もタダでネットで見ることができる。

 そうなったとき、この室内楽版を聴くことは、むしろ「表層」の差異に気付かされ、それを注視することになるはずです。そして、楽曲の構造という「本質」の外側にいる「表層」に、オーケストレーションだけでなく、演奏の趣向の違いを見出せるはずです。
 そもそも多くの現代の聴衆は、音楽を構造的に解釈しようとして演奏会に足を運んでいるわけではない。少なくない数の聴衆が、もっと、ふわっと、聴いていると思います。

 これは非常におおきな違いです。
 彼らがブルックナーを編曲したのは、ブルックナーを「編曲可能なもの」だと思ったからです。つまり、ブルックナー作品の内側には変わることのない「本質」、イデア、構造があると思ったからです。だから、どのような形態で演奏したとしても、内側にある音楽の「本質」は歪められることがない。
(また、私的演奏協会のコンサートで、演奏の間に拍手やブーイングを送ることを禁じていたことからも、演奏家や演奏の存在を軽視していたことは明らかです。)

 しかし、そんなことなかったわけです。現代において、室内楽版のブルックナーを聴くときに、ブルックナー音楽の「本質」それ自体を語る人は少ないでしょう。むしろ、ひとびとはその「表層」(つまり、実際に聞こえてくる音)について語り、そして原曲とのそれらの差異を聴くわけです。(そして、先に申し上げたように、実際にその演奏は、変わってきます)。

 その誤配にこそ、音楽的な価値がある。
 編曲者たちの想定していなかった価値が、偶然に生まれた。これは本当に美しいことだと思います。

 話が長くなってしまいました。
 この編曲は、原曲とは異なります。その価値基準を根本的に転倒させるような価値がある。この編曲版を聴いた後には、他のブルックナー作品も、まったく違って聴こえてくるかもしれない。言い換えれば、いつもの音楽を聴くことによって、新しい音楽に出会えるかもしれないのです。
 私はそのように思います。


 と、まあ、このように準備していたわけですが、シンポジウム初心者のわたしは、他の話題からこれらに引っ張ってくることもできず、ただTシャツを自慢しただけのひとになってしまいました。ちなみにこちらがそのTシャツです!笑
 余談。学生のときに足繁く通っていた個人カフェのお兄さんに、ブルックナーについて力説したら、彼はまったく知らなかったブルックナーという「ひと」に感動し、意気投合して「じゃあ、Tシャツでも作って着てみよう」となったわけです。いまは亡きあのカフェで、またスリランカのミルクティー飲みたいなあ。

画像1

 さて、ブルックナーの室内楽版《交響曲第7番》を演奏する公演はこちらです。ぜひ来てください!
https://teket.jp/789/2804

画像2

画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?