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疫病禍に翻弄された音楽家が一年を振り返る

以下は一演奏家だった布施砂丘彦が、パンデミックに翻弄され、音楽に対する問題意識を抱き、変容していった一年間の備忘録です。


 ちょうど一年前、2020年1月24日は、東京スカイツリーの7階にあるプラネタリウムで仕事をしていた。プラネタリウムの中で演奏するのは初めてで、暗闇のなか、黒い紙に白く印刷された楽譜を見て(それは初めてチェンバロの鍵盤を見たときの衝撃を思い出す!)演奏すると、音が裸になって自分の外側へ歩き出していくような、ちょっとした気恥ずかしさを覚えた。
 けれども最も印象的だったのは、終演後に初めて明かりに照らされて見えた客席だった。全員がマスクをしていたのだ。まだこの頃は日本で初めての感染者が出たくらいのときで、クルーズ船でクラスターが発生するよりも一週間以上前である。しかし、インバウンド客も多いスカイツリーでは厳重体制だったのだろう。楽屋にも代表の方のご好意でさまざまな除菌グッズが置いてあって、疫病なんて異国の何かだと思っていた僕にとっては、すこし大袈裟にも思えた(もちろん、いま思えば素晴らしい対応でした。感謝しております)。

 僕は3月にオーケストラのオーディションの本審査を控えていて、この頃はそのことで頭がいっぱいだった。1月に提出した予備審査の録音は、ともかく何度も何度も録りなおした。電話で録音審査の通過を知ると、本審査に向けてレッスンも受けに行き、オーディションの旅費も含めたら10万円は使っていた。
 そのオーディションが延期になるという報せを受けたのは2月の末だった(結局、夏頃にオーディションそのものが立ち消えた)。どうしても入りたいオーケストラだったし、全てを注いでいたから、そのショックはあまりにも大きかった。オーディションに向けて3月の前半は仕事をほとんど入れていなかったから、とっても暇になった。そして気がついたら3月の仕事はどんどんキャンセルになっていき、2月の26日に都響さんに乗らせていただいてスターウォーズを弾き、28日にオルケストル・アヴァン=ギャルドでバッハのロ短調ミサを弾いたのが最後のまま、僕は自粛生活に突入した。
 この頃は経済的な不安があまりに大きかった。仕事はどんどんなくなり、毎日中止や延期の連絡が来る。キャンセル料を払いますだとか、ギャラの何%を支払いますみたいな連絡はない。むしろ、「規定の通り疫病の流行が原因なので支払いはない」だとか(規定も規約書も見たことない)、「規定では一ヶ月前を切ったキャンセルの場合100%のギャラを支払うことになっているが、いまは壊滅的な状況で、50%でもいいか」という電話も来たりした。オーケストラの入団試験がなくなって将来への不安が募っていたから、まさに泣きっ面に蜂だ(こうした経済的な不安は、経産省の給付金や東京都の協力金によって、後に解消された)。

 ともかく仕事が何もないから、やることがない。こんなことは大学の入学に合わせて上京してから、初めてのことだった。オーディションがなくなったから、楽器を弾くモチベーションもだいぶ失われた(オケスタを練習したりすると、コンサートがないことが目の前に迫るようで、悲しくなるのだ)。
 緊急事態宣言も出た5月、近所のスペイン料理屋で週1回程度アルバイトに入りながら、久しぶりに読書をするようになる。12歳からTwitterをしていた僕にとって最愛の故郷であるインターネット上には、自宅に追放された音楽家による夥しい数の演奏動画が跋扈していて、とても喧しく思えた。だから逃げるためにも、本を読む。すると、数十年、数百年、あるいは数千年前に人々が思っていたことを、自分もこの疫病禍の音楽シーンに対して思っていることに気がついた。そしてちょうどその頃、「柴田南雄音楽評論賞」というのがあって、その締め切りが3週間後くらいだというのを知る。一位になると60万円、2番目でも30万円もらえるらしい。
 そこからはパソコンと向き合う毎日が始まる。実のことを言うと、僕はそれまでちゃんと文章を書いたことがなかった。大学ではひとつもレポートを書かなかった(東京藝大の弦楽器科は、それで卒業できてしまうのだ!)。長くてもTwitterの文字数制限にあたる140字が限界で、ブログの類だって最後に書いたのは4年前である。しかし、柴田賞の過去の講評を読むと、審査員が何を求めていて、いまの音楽評論に何が足りないかは、一目瞭然だ。自分は文章を書くテクニックがないから一位にはなれないけれど、問題意識だけは分かっているから二番目にはなれるという謎の自信があった。兄や友人に査読してもらって、締切日の時間ギリギリに、提出できた。

 論文の提出を終え、緊急事態宣言も解除されると、神保町の中古CD屋さんでアルバイトを始める。前述のスペイン料理屋が人生で初めてのアルバイトだったが、結局一ヶ月も続かなかった。論文を書いていくうちに音楽の聴取に興味を持ったので、そのフィールドワークとして、どのような人がどのようなCDを買うかを知りたかったから、鞍替えしたのだ。しかしそういった興味に対しては結局何にも新しいことは手に入らず、むしろ、大手でのアルバイトだったので、接客を学んだことが大きかった。今まで「いらっしゃいませ」なんて発音したことも、レジ打ちもしたこともなかったので、この経験がその後の自主公演で地味に役立った。

 アルバイトを続けながら、夏になると段々と仕事も戻ってきた。最初は7月末の新潟りゅーとぴあでのコンサートだった。久しぶりのオーケストラはびっくりするほど普段通りで、良くも悪くも、パンデミックなんて関係なく音楽が存在できるという強度に感心した。
 しかし自分は論文の中でパンデミックと音楽について述べたし、現実にはパンデミックによって変わってしまった音楽がたくさんある。わたしは一演奏家として、ああいった論文(問いかけ)を書くならば、それを実際の演奏会でひとつのアンサーとして形にせねばならないと強く感じた。
 その思いから、わずか一ヶ月で開催したのが「「終わりなき終わり」を「変容」する」だ。社会学者の大澤真幸氏は、パンデミックというこれだけ大きな出来事が起きながらもそこから得たものが「距離を取りましょう」だけならばそんな貧しいことはない、と断じた。そんな彼が使った言葉が「終わりなき終わり」だ。「ニューノーマル」と謳って「貧しさ」を「新しさ」だと偽証する音楽に辟易した僕は、大澤真幸への敬意を込めて、このタイトルを付けた。
 この公演は至ってシンプルで、楽曲は二つだけである。まず開場前からリゲティの《100台のメトロノームのためのポエム・サンフォニック》を演奏する。平土間の会場に距離を取った椅子を配置し、その間を這うように100台のメトロノームがそれぞれの律動を刻み、ゼンマイが切れるとその役目を終える。そして最後の一台が力尽きると、リヒャルト・シュトラウス晩年の名作《23の独奏弦楽器のためのメタモルフォーゼン》が始まる。《メタモルフォーゼン》では、指揮者を中心に客席と演奏家の席を交互に円弧上に配置し、全ての客席から2メートル以内に演奏家がいるという並びかたにした。物理的な密は避けながらも、その圧迫感は異常に暴力的なものだった。
 3回の公演はほぼ満席となり、また、入場料の1000円とは別に「支援してください」と置いた募金箱には、入場料の総額を上回る金額が入っていた(一万円札も珍しくなかった)。
 音楽がTwitterやInstagramなどのSNSに迎合していく世界では、「いいね!」や「リツイート」といった「数」が全てを支配する。Apple Musicなどの有料音楽配信サービスも同じである。全員から均一のお金を徴収して収支を安定させるならば、資本主義に従属することが目に見えている。あるいは金額を高く設定して、オンラインサロン的になることも可能だろう。しかし、芸術には公共性が必要だ。今回の演奏会のように安価に設定することで世間にひろく門戸を広げ、その上で余裕のあるかたには多めに支援していただく。そうすれば、「数」に囚われず創作をすることができるのではないか。そもそも芸術は、全員が均一な入場料を支払っても、均一な体験を得られるとは限らない。ディズニーランドのような合理的な娯楽とは、ジャンルが違う(もちろんどちらがいいという話ではない)。
 100台のメトロノームを買ってお金がないからという非常に現実的な思いから生まれた「募金箱」から、こんなにも(金銭的な意味を超えて)得るものがあるとは思わなかった。

 秋になると、演奏の仕事が完全に復活し、むしろ休んでいた分を取り戻すように(ありがたいことに)仕事に追われる毎日となる。その頃、一件の電話がかかってきて、目論見通り、柴田賞で「奨励賞」という2番目の賞をいただけることになった。とっても嬉しくて、文字通り小躍りしたことを覚えている。授賞式はパンデミックの渦中だから簡素なものとなったが、三浦雅士氏や船山隆氏をはじめとした「すごいおじいさん」たちに出会え、短い間でもお話を聞けたことは良い経験になった。また、この時に柴田賞の本賞を受賞した相馬巧さんに出会ったのも、嬉しい誤算と言える。

 11月には、一年前から企画していた室内楽のコンサート「ベートーヴェン、交響曲前夜。」を開催した。国際コンクールで賞を取ったり、芸大の教授だったり、プロオケの団員だったりする文字通り「すごい方々」に出演していただいた企画で、東京都北区さんの共催のもと、無事に開催することができた。自分が主催させていただく公演の中で最大規模のもので、事務仕事に関して初めてのことが多く、そういった意味でも勉強になった(雑誌への出稿や仕事の外注どころか、ちゃんとした予算書を書くのさえ、これが初めての経験だった)。
 この公演は、ベートーヴェンの交響曲という「近代的な音楽の始まり」への「前夜」として、彼が交響曲以前に作曲されたものを「前近代的に」演奏した。ピリオド演奏をするだけでなく、メインの《七重奏曲》を分割し、その合間に歌曲やチェロソナタ、ピアノソロを挿入し、聴取におけるピリオドも試みた。曲目もただ並べるだけでなく、陥没楽句などをテーマに敢えて遠隔調の楽曲を組み合わせることによって、ベートーヴェンの交響曲への「夜明け」も感じさせる構成にした。

 月末には小さな規模で自主企画の室内楽公演を行った。富山で同級生だった友人たちとシューベルトのますをテーマに、C.Ph.E.バッハから現代音楽まで並べたプログラムで、楽しい時間となった。

 自主公演が終わって師走の演奏業務に追われる日々が始まるが、どうしてももうひとつ公演を制作したくなって、また急拵えでコンサートをすることになった。これが「歌を捨てよ 分断を歌おう」である。こちらも「「終わりなき終わり」を「変容」する」と同じく、構想から開催まで一ヶ月ほどである。
 何気ないツイート(こんなコンサートやりたいなあというものだった)に反応した藝大時代の同級生川崎槙耶氏と、前述の授賞式で出会った相馬巧氏を巻き込み、若さと勢いと、皆さんの尽力で無事に開催できた。一応これで、僕の「パンデミックに対して音楽は何ができるか」という問いは形にすることができたと思う。(少なくとも日本において)パンデミック禍の音楽シーンで誰もしていないことをやったという自負はある。しかし、誰もしていないことをやったから必ずしも良いというわけじゃないし、視野を世界に広げたり、あるいは音楽以外の芸術に広げたりすれば、珍しくもなんともないだろう。

 今後、新型コロナウイルス感染症がどうなるか、まったくわからない。少なくとも、感染症の犠牲になった方々や、感染拡大によって困窮した方々が多くいるという事実は疑いようがない。その中でこんなことを言うことは良くないのかもしれないが、わたしの音楽活動に、パンデミックが(良くも悪くも)深い傷を与えたことは間違えない。この「深い傷を与える」ということは、本来音楽が担うべき仕事である。そんなことに気付かされる、一年だった。


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