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小澤征爾さんの思い出。そのじんわりとした魔法は、まだわたしのなかに染みたままなのです。

ある程度ニュースが落ち着いた頃に、この個人的な場所へ投稿しようと思っていました。小澤征爾さんの思い出についてです。

一度だけ、小澤征爾さんの指揮で演奏をしたことがあります。2017年夏のセイジ・オザワ 松本フェスティバルでの「小澤征爾音楽塾」。曲はラヴェルの《こどもと魔法》です。小澤さんはすでにかなりのご高齢で、けっきょく本番はデリック・イノウエさんが振り、小澤さんはリハーサルに何度か立ち会うだけでした。
冒頭、デリックさんが指揮を振ると、小澤さんは違うと言い、それから、ひたすら、カタコトの英語で「ラヴェル、ロート、ワンワンツー」と言います。デリックのテンポは早すぎる、ラヴェルが書いたテンポは112だと言いたいんでしょう。でも、じっさいにはデリックさんはメトロノーム通り112で振っていました。それでも小澤さんは「ラヴェル、ロート、ワンワンツー」と、まるで呪文のように唱え続けるのです。まったく遅いテンポで、何度も何度も冒頭のオーボエの二重奏を繰り返します。するとどうでしょう、じんわりと、まるで雪が溶けゆくように、音楽に血が通っていくのです。わたしはそれまで小澤征爾という指揮者に対して特別な思いは抱いていませんでしたが、そのとき、まさに魔法にかけられました。それは決して劇的なものではなく、染み入るような魔法でした。その後、リハーサルを続けていくなかで、ラヴェルの音楽が、どんどんと、まるでハッキリとした夢のように、幻想性とリアリティを同時に獲得していきました。あの音楽体験は、一生忘れることがないでしょう。
呪文というのは、えてしてそれ自体には意味がなく、しかしそこに信じる心が強くあり続けるからこそ、何かを生み出すのでしょう。
小澤征爾さん、ありがとうございます。とうてい、ご冥福を、とは言う気分になれません。なぜなら、あなたはわたしが生きている限り、わたしの心のなかで生き続けていき、そしてわたしに与え続けていくからです。

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