野球と映画は同じという話③

阪神タイガース、CS初戦勝利の喜びを噛み締めつつ。

前回の記事で、脚本は投手であると仮説を立てたが、ここでは、俳優(役者・キャスト)は打者であるという説を述べたい。

今年、東京ドームへ2回、阪神の試合を見に行った。
一番大きな声を上げて騒いでしまったのが、阪神・大山選手のホームラン。
やっぱり、期待した打者が打つのを見るのが一番気持ちがいい。
単純に、見に来た価値があると思えた瞬間だった。

これは、俳優陣の素晴らしいお芝居を観ると、観客が胸打たれるのと似ているな、と思う。

四番が主軸だとすると、主役=四番といえるだろう。
四番が打てば盛り上がるように、主演が良い芝居をすればするほど、映画の満足度は上がる。
主演俳優の素晴らしい動き、惚れ惚れする美しい表情が切り取られるたび、得点が入っていく。

俳優陣が輝くほど映画の満足度が上がるように、球場やテレビの前が盛り上がるのは、やはり打者が打ちまくる試合だと思う。

両軍が点をとりまくる試合、いわゆる乱打戦。
年間通して乱打戦は数試合あり、これは白熱必至だ。推しているチームの得点シーンがいつも以上に見れるわけだから、それは盛り上がる。
しかもただの圧勝ではない。追い上げられるスリルも味わえるのだから、最後の最後まで飽きが来ない。

しかし、ここで問題にしたいことが一つある。

乱打戦ということはー
「打たれている」ということ。
すなわち僕の理論では、脚本が「打たれてしまっている」。


よく映画サイトやSNSでの感想で、「ツッコミどころ満載だったけど楽しめた」なんて感想を目にするが、これこそまさに乱打戦の試合と相似形。
「ツッコミどころ満載だったけど楽しめた」映画は、たくさん点を取られてヒヤヒヤしたが、たくさん点をとったので勝って良かったな、という試合とかなり似ていると、僕には思える。

さぁ、大味の乱打戦の末になんとか勝てた試合。
観客は満足するけども、はたして監督は良しとするだろうか。
たくさんリリーフをつぎ込んでしまったり、エラーが出たり。そんな雑な野球で勝った試合を、監督はおそらく手放しで評価できないだろう。



勝ちにもいろんな勝ちがあるが、乱打戦と対局の概念に、締まった投手戦というものが存在する。たとえば「1ー0」で終わるゲームのこと。

こういう試合は一見、目に見える動きが少なく、観客からすると退屈に思えるかもしれない。試合が停滞しているようにさえ見えるだろう。

まして、なぜ投手が打者をおさえることが出来たかなんて、球場で見ている分には、素人はまず理解できない。

けれども。けれどもだ。
投手捕手、そしてバッター。その間には無言の駆け引きが、きっとたくさん存在する。たった1点が、明暗を分ける。痺れる試合。
僕は、こういう試合もまた格別に好きだ。

映画にだって、セリフにはならない無言の駆け引きが、実はたくさんある。
それは脚本における構成の妙や、カット割り。あえて台詞にしないお芝居の間や、説明を排除する音楽。その緻密な設計の中で、丁寧に紡がれる俳優の芝居が、観客の心をつかむ。たった1点でも、深い感動を伴う得点シーンとなる。劇的な展開や、わかりやすい捻りがストーリーに無かったとしても、エンドロールまで見た観客は、名状し難い没入体験を味わっていたことに気がつく。映画の、勝利。

2023年6月4日。
阪神タイガースがロッテの佐々木朗希投手から、たった一安打で一点をもぎ取り(四球と盗塁のランナーが生還した)、そのまま一点差で勝利した試合。
あの試合こそまさに。
岡田監督の手腕やイズム、そして結果を出す選手たちが、評価される試合。
そして、とてつもなく映画的な試合でもあったと、僕は思う。

乱打戦も、投手戦も、それぞれの味がある。
派手さも繊細さも、両方楽しめるのが野球であり、映画なのだ。


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