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嘘みたいなもの

予想外だった。ただ、想定の範囲内ではあった、はず。
『サキへ……いや、佐紀子へ』
緑に光るペンライトで埋め尽くされた客席から、さきこぉ!と声が上がる。やめてよ、違う。あたしは佐紀子なんかじゃない。まだ今日が終わるまでは、あるいはあと数十分でいいから、サキのままでいさせて。
『お母さんから見た佐紀子は昔から変わらず、いつも大人しくて、ぼーっとしていて、本当にアイドルをやっているのか、はじめのうちは信じられませんでした』
まばゆいライトにお母さんの顔が浮かんでくらくらする。卒業ライブも終盤、お母さんからお手紙をいただいています、と叫んだメンバーが四人のうち誰だったか、サプライズすぎてもう既に覚えていない。揺れる赤、ピンク、黄色、青……原色の衣装についたラインストーンが目を眩ませる。
『ジュースよりも玄米茶、ケーキよりもお饅頭、焼肉より焼き魚が好きで、ライブの後はよくお魚料理をねだられました。一人暮らしをはじめてからは、一緒にご飯を食べることも少なくなったけれど、帰ってくるときには旬のお魚を買うのが習慣になりました。そのせいでお父さんは、わたしがお魚を買ってくると「佐紀子が帰ってくるのか」と毎回訊いてくるんですよ』
会場に笑いが起きるなか、目の前にぐるぐるまわる実家、お父さん、青くて四角いお皿に乗った大きな焼き魚。日常の、現実の、本当の色が押し寄せてきて、あたしは必死に嘘みたいな思い出たちに寄り縋る。助けて。フリルとマイクとリボンと汗とミニスカートのことで頭をいっぱいにしようとする。あたしのための光が、緑の光たちが、遠ざかっていく。なんて言うんだっけこういうの、さんく……さんくちゅあり、が、消えゆく。
『雑誌やテレビなんかで見かけたときには、とてもうれしかった。もっと有名になりたいのに、なんて悩んでいたこともあったみたいだけれど、元気にやってきてくれたことがなによりの親孝行です』
てらてらした薄い生地の派手なドレスを着て、髪の毛を二つに括って、強すぎる光の中に立っている事実に、変な汗が出る。逃げ出したい、こっちを見ないで。そっかあたし今、恥ずかしいんだ。夢から覚めてしまった。おはよう……。
『佐紀子、卒業おめでとう』
まだ終わりじゃないのに。あと二曲、そのあとアンコールだって用意してる。お客さんもステージ上のメンバーもみんなぼろぼろと泣き崩れているのに。あたしだけどんどん乾いていくような感覚。
『七年間、本当にお疲れ様』
その言葉を聞いた瞬間、あたしのアイドル人生は終わってしまった。

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