「選択を正解に」に対する違和感

最近、「選択を正解に」という言葉をよく耳にするようになった。

友達が言っていたり、SNSで流れてきたり。

ただ、個人的にこの言葉になぜか腑に落ちない感覚を持っていた。

その感覚は直感的なものであり、言葉にしづらいものだったので、ずっと放っておいたのだがやはり自分には相入れない考えであるということは明確に思えた。

どうしても正解と思いたくても思うことができない経験はある、正解でなく不正解でもいい生き方は必ず存在している、そう感じていた。

この違和感を少し言語化したくて、友達にこの言葉についてどう思うかということを聞いてみた。

その友達は、一時期「選択を正解にすること」を座右の銘にしていたほど好きなフレーズだと言う。

彼は、自分の人生を正当化するために使っていたのかもしれないなと語ってくれた。

自分の生き方が間違っているかもしれないという不安から逃れるために、自分を守り正解だと思い込ませるために言っているのかな、と。

僕は、この言葉を使っている人たちが自信があって我が道を行く強さを持っている人たちなのだと勘違いしていたらしい。

彼らは様々な不安などを抱きながらも自分を鼓舞するために、この言葉を使っているのだろう。

それを聞いたとき、なんとなくこの言葉の意味が少し理解できたような気がした。

ただ、この言葉に完全に賛同するわけではない。

先にも述べたように、正解とは言い難い選択をすることは生きている上では不可避であるように思える。

そのような正解とは言えないような選択を全て正解だと自分に信じ込ませることをしてしまうと心が苦しくなる。

自分ではどうすることもできないような災害や事故などを正解だったと言える人はどれだけいるのだろうか。

そんなことまで正解だったと言う必要は必ずしもない。

人生にはどうしても許せない、受け入れられない出来事の一つや二つはあるものだ。

ただ、その中でも言えることはある。

「自分の人生は自分で選択できる」ということ。

自分の選択が正解だったか不正解だったかは関係ない。

それらは運など不確定要素が大いに影響するので、コントロールできないものである。

自分の人生を自分で選択し、その選択をしたことによる結果は受け入れる、ということを認識していれば、出来事は自分の選択の中に全て内包される。

つまり、コントロール不可能な正解不正解にとらわれるのではなく、自分の選択というコントロール可能な領域のみに集中をし、その結果はどう転がったとしても受け入れることができたらいいということだ。

自分の選択をすることだけ意識すれば、もし失敗したとしてもそれを受け入れられる人は多いはずだ。

正解かどうかにとらわれて事実を受け入れられないなんてもったいない。

正解は選ぶものではなく、後からついてくるもの。

だからこそ僕は、ただひたすらに前を向いて、自分で選択することに集中し、その結果を受け入れる、ということだけを意識していきたい。

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