学生と生活ー恋愛運命論ー


●「夢見る」人と「夢見ぬ」人との違いは、その環境にあるのでなく、その素質にある。

●学生諸君は好運に選ばれたる青年であり、その故に生命とヒューマニティーと、理想社会について想い、夢見、たたかいに準備する義務があるのである。

学生の常なる姿勢は一に勉強、二に勉強、三に勉強でなくてはならぬ。

そして、その姿勢が恋の悩みのために、支えんとしても崩されそうになるところにこそ、学窓の恋の美しさがある。

●学への愛も恋への熱も、ともに熾烈でなくてはならぬ。この二つの熱情の相剋するところに、学窓の恋の愛すべき浪曼性があるのである。

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●「すべてを順直に」ということが、青年のモットーでなければならぬ。
ませた青年になろうとするな。大きく、稚なく、純熱であれ。それがやがてはまことの知性の母なのだ。

●恋愛とは何であるかということを、概念的に決めてかかることは、大事なことではない。

むしろ自分自身の異性への要求と、恋愛の体験とによって自らこの問いをさぐっていき、自説を持とうとするがよいのだ。

実際人間はその素質なみの恋愛をし、その程度の恋愛論を持つのだ。

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●一般にいって、自分の恋愛の要求を引き下げる必要はない。自分の夢多き空想だとして、現実主義の恋愛論に追従する必要はない。

●結婚後の壮年期に達したるものの恋愛論は、もはや恋愛とは呼べない。結婚後の壮年が女性を見る目は呪われているのだ。

●結婚前の青年にとって恋愛とは、未来の「よりよき半分」を求めんとする無意識的な模索である。
それは「二つのもの一つとならんとする」願望のあらわれである。

●二人の運命を──性欲や情緒だけでなく──ひとつに融合しようとするものでなくては恋愛ではない。

「を味う」という法則でなく、「と成る」という法則にしたがうものであり、その結果として両者融合せる新しき「いのち」が生誕するのだ。

つまり、子どもの生まれることを恐れる性関係は恋愛ではない。

そして、互いの運命に責任を持ち合わない性関係は情事と呼ぶべきで、恋愛の名に価しない。

精神的向上の情熱と織りまじった恋愛こそ青年学生のものでなければならぬのだ。

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●女を知ることは青春の毒薬である。童貞が去ると共に青春は去るというも過言ではない。

もはや青春はひび割れたるものとなる。
一度女を知った青年は娘に対して、至醇なる憧憬を発し得ない。青春の夢はもはや浄らかであり得ない。

肉体的快楽を、たましいから独立に心に表象するという、実に悲しむべき習癖をつけられるのだ。
性交を伴わぬ異性との恋愛に喜びを感じられなくなる。

●そしてさらに不幸なことには、このことは人生一般の事柄を見る目の、純真性を曇らす。

快楽の独立性は必ず物的福利を、そして世間的権力を連想せしめずにはおかぬ。

人間がそうした見方を持つにいたれば、もはや壮年であって、青春ではないのである。
事実として青春の幸福はそこから去ってしまうのだ。

●何かの運命でそれを既に失ってしまった者は、修養すべきだ。全然とり返しがつかぬということはない。

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●ある青年がどんな娘を好むかは、その青年の人生への要求をはかる恰好の尺度である。

だから娘に対して注文がないということは、生への冷淡と、遅鈍のしるしで、ほめた話ではない。

●偉大にして理想主義のたましい燃ゆる青年は、自分は真に将来を託するに足る存在だというようなことを、娘に啓蒙するのだ。

●貧しい学生などよりは、少し年はふけていても、社会的地歩を占めた紳士のほうがいいなどといった考えは実に愚劣なものであるというようなことを、抗議するのだ。

●日本の娘たちはあまりに現実主義になるな。
浪曼的な恋愛こそ青春の花であるということを鼓吹するのだ。

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●娘を、わが心にかなう愛人に育てあげるくらいの指導性を持たねばならぬ。

娘たちの好みに沿おうとするだけでは、時代の青年の質は低下し、娘たちの好みもまた向上しないであろう。

●使命の自覚は恋愛以上である。
宗教的、良心的命令も恋愛以上である。
人類的正義と国家的義務も、恋愛以上である。
青年はこれらの恋愛を越えたる高所を持ちつつ、恋愛を追わねばならぬ。

恋以上のもののためには恋をも供えものとすることを互いに誓うことは、恋をさらに高めることである。

●道徳的、霊魂的向上がこうして恋愛のテーマとなってくる。二人が共同の使命を持ち、それを神聖視しつつ二人の恋愛をそれに沿わせていくのは、最も望ましいことである。

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●以上は青年学生としての、恋愛一般の掟の如きものである。しかし現実の恋愛は実に多様な場合があり、一概にはいえない事情もある。

●異性に恋して少しも心乱れぬような青年は、人間らしくもない。

●その恋愛が障害にぶつかるときには、勉強が手につかないようなこともあるだろう。

恋する力が強いのが悪いのではなく、知性や意力が弱いのがいけないのだ。奔馬のように狂う恋情を、鋭い哲学的知性や高い意志で抑えねばならぬ。

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●あまり恋に飢え、恋の理想が強い青年は、相手をよく評価せずに偶像崇拝に陥る。

●相手の異性をよく見わけることは何より肝要なことだ。自分の発情を慎しんで、知性を働かせることだ。

●よほどのロマンチストでない限り、一と目で恋には落ちぬ。二た目でそれほどでないと思えば、憧憬は冷却する。

●自分で、自分を溺らすのが一番いけない。
それほどでもない異性を恋して、大きな傷を受けるほど愚かしいことはない。

●焦らずとも、待っていれば運命は必ずチャンスを与えるのだ。自分がまだ若く、青春がまだまだ永いことが自分に考えられないのだ。

●恋愛のチャンス、女を知る機会にこと欠くようなことは絶対にない。ヴィナスが自分の番をかえりみてくれる摂理を待つべきだ。

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●自分たちはいま結婚前であり、その準備時期にあることを忘れてはならぬ。
そして、美しい恋愛から結婚に入らねばならぬ。
それは人生の大儀だ。

●結婚前には心を張り、体を清くして、美しい恋愛に用意していなければならぬ。

結婚前に遊戯恋愛や、情事をつみ重ねようとする事は実に不潔な、神聖感の欠けた心だ。

●美しく、清らかな青春時代を持つべきだ。
まして、その青春を学窓にあって過ごし得ることは、学生諸君が自分で気のつかない実に大きな幸福である。

清らかな、熱き恋をしなければならぬのは当然な義務である。汚れた快楽など思うべきものではない。

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●学生時代の汚れた快楽の習慣は、必ず精神的薄弱を結果するものだ。

その原因は、肉体的快楽を知ることによって、あまりに大人となり、学窓の勉強などが子どもじみて見え、努力をつみ重ねて行く根気を失うからである。

努力をあまりつまずして具体的効果を得たいという、最もいとうべき考え方の傾向が必ずそれについで起こるものだ。

●また、汚れた快楽を追うことのもうひとつの害毒は浪費である。
物質的清貧の中で精神的仕事に従うというようなことは、夢にも考えられなくなる。

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●原則として恋愛というものは、先方に気がなければ引き退るべきはずのものだ。

●失恋の傷は実に深い。しかしはこの悲傷をまっすぐに耐えて打ち克つ時に必ず成長する。
だから自棄になったり、折れてはいけない。

また、時と摂理のいやしの力が必ず働くものだ。
摂理は別の恋愛を恵むものだ。そして今度は幸福にいく場合が多い。恋を失っても絶望することはない。必ず強く生きねばならぬ。

●青年学生の青春のパートナーとして、私が避けたいのは媚を売る女性のみである。
「恋愛に焦るな」「結婚を急ぐな」

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●上記の希望はすべて、運命という不可知な、厳かなものを抜きにして立言しているに過ぎない。

最も厳かな世界では一切の規準というものはない。
そこでは恋愛もまた運命である。選択は第二義にすぎぬ。

●恋愛の最高原理を運命に置かずして、選択におくことは決して私の本意ではない。

私は「運命的な恋愛をせよ」と青年学生に最後にいわなければならないのだ。

●夫婦を結ぶ運命は恋愛を通してあらわれ、恋愛の心理は無意識選択の働きを媒介とする。

つまり、二人の恋愛の中に運命を見たから、二人は夫婦なのだ。その他の条件はすべて付加条件にすぎない。

●相手の女性が美しいから、善いから、好都合だから私の妻なのではないということだ。

学生と生活ー恋愛ー 著者:倉田 百三

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