見出し画像

療養奮闘記!わたしと痛みとのお付き合い

痛くて眠れない。いつものことだ。
身体が痛みを感じるたびにさらにガチガチだし、手足は痺れてひりひりだし。眠いけど、なんかさえちゃって眠くない、みたいな。

線維筋痛症ー、えーと超雑にいうと身体のあちらこちらが常に痛む病になってから、もともと夜行性のわたしは、さらに眠れぬ夜を明かすエキスパートになってしまった…

痛みというのは、ある程度であれば(わたしの病はたぶん強さだけでいったら中程度じゃないかな、歩くことはできるし右側は自由に動く)自分をだまして、うまく気をそらせて共に過ごすことができる。

たとえば、歌を歌えるなら、歩きながら作業しながら口ずさむ(生理で腹をかっさばかれるような痛みになるとお手上げだが)

あと、散歩。これは主治医に毎日30分やれと言われている。私が思わず、え、足が痛くても⁉︎と睨みながら聞いてもうん、合計でそれくらいは歩くように、と平然と言われた。

でも、実際にやってみると睨んだのはすみません…と思うくらいには、確かに散歩というのはよかった。寝込んでどうしようもないのたうちまわる日以外は、特別な用がなくても必ず外をふらりと歩くようにしている。
神社に行ったりすると、木々の煌めきが心地よくて痛みが和らぐ。犬やかわいい小さな子どもとすれ違う時も、にこにこして心身が休まる。

まぁ しかしながら「痛くない、平気」といえば嘘だ。24時間365日、ぴったりとそれはわたしに寄り添う。痛みのつよさは変わるけど、そいつがいることは変わらない。うまくごまかして忘れることはできても、起きぬけはものすごく主張して、だるさがぶっちゃけ半端ない。

寝る前は待ってましたとばかりにあちこちに激しめに襲いかかってくる。
いつこれがいなくなるのか、少なくとももっと弱まるのか誰にもわからない。未知!

痛いなーってあまり痛みに意識を向けすぎない方がいいよ、というようにたしかドクターは言った。(主治医と書くのが面倒になってきたので英語にしてみた)
音楽聴いたりして気を紛らわしたりね、認知行動療法って言うんだけど
だいぶ前に確かそう言っていた。

音は溢れている。心臓の奥にも(すきな曲が脳内に流れだす)、街中のいたるところ、眠れないで迎えた明るい空のもと、部屋に舞い降りてくる鳥のさえずりも。

良くも悪くも痛みに、身体に触れる感覚すべてに過敏であるがゆえに、聴覚さえ敏感になった気がする。
鳥の音域って高いなぁと耳を傾ける、一瞬身体からふっと痛みが遠のいていく。もし苦しくなければ、こんな繊細な感覚もたなかっただろう、というのはきっと残酷だね。でも、わたしは、日常の何気ない匂いや音、身体に纏う空気、ぜんぶ愛している。生きていたい、と思う。

線維筋痛症は、難治性で解明もされていないが、命には別状のない病だ。それでも、随伴症状に抑うつがあらわれる傾向も少なからずあり、経済的困難に陥りやすいこともあり、平たく言えば絶望感にさいなまれやすい病と言われている。

痛みが身を包む夜に、息をするようにふと消えてしまいたい、という思いがぽつりと夜気にとけていく。
減ったけれど、その感情が湧き上がった時に、最近は否定しないことも、大切なのやもしれぬと思ったりする。
そりゃずっと痛かったら衝動的に楽になりたいもんな〜て自分をよしよししてやれたら、その瞬間は痛みをある程度誤魔化せるから。身体と仲良しでいるために、ありのままの事実を受け入れていけたらと。

あと乱暴なやり方かもしれないけど、歌を口ずさんだり、猫語を話したりすると(猫役をやってから特にハマってしまった遊び)わたしはご機嫌なんだ!と身体が錯覚するのである。
心穏やかに過ごすと、わたしは大丈夫なんだ!と身体も安心しやすくて、痛みの波がさぁっと引き潮になってくれる、気がしている。(よく考えればストレスが減れば副交感神経が優位になるわけで、科学的に当たり前か‥

もし今読んでいる方が慢性疼痛の同志ならば (いやそうでなくても、きっと心とか怪我や何やらで痛いこともあるだろうから、そういうすべての人へ)、歌うのやおしゃべりが嫌いじゃなければぜひ試してみてほしい。
ほぼ暇さえあれば口ずさんだり元気な猫の真似をしたり、あと赤ちゃん言葉もいい。ごきげんな声や音色をとりあえずだしておくと本当に楽しくなる。(大人としてどうなんだ、てのは突っ込まんといて…)

あと何言ってんねん、と言われそうだが、人は皆ばぶちゃんの自分を心に飼っているのではないか、などと最近思う。
泣き出したかったり、喚きたかったり、もちろん大笑いしたいときだって。そんなわたしのことを、私自身が誰よりかわいがってやれたら、痛みも少しはましになるかな、なんて。

うっかり身体にいつもより負荷をかけてずきり、と激しい痛みになったとき、ばぶぅと泣いて怒る赤ちゃんの我に、痛かったねごめんね、となでなでしたら、キャッキャってご機嫌が治る(本当だって、いやそんな目でみるな私を!)



歩くこと、歌うこと、とか心地よいできる範囲で。完璧じゃなくていいの。てか、生き延びられればなんだっていい、と思う。うまくいかない日があったって、生きていればまた夢をみて、なりたいものになれる時が絶対にやってくる。自由に跳べるその時まで、歩いていくことができる。
努力して楽しんで、愛する人たちと会って何度でも遊べる。この世界に触れることは、怖いことだってたくさんあるし、それ自体痛みを伴うものに思えてしまうけど、それでも、生きててよかった、に出会いたくて。わたしはずっとその瞬間のためにがむしゃらに足を動かしているよ。これからもきっと。

自分をだましたり、することでもちろん頑張れることもあるかもしれんけど、ただ、そうやって生きるばかりでなくてもいい、とも思う。痛い事実との向き合い方はひとつじゃない。
できることをただやる、できないことは無理にやらない。痛くてどうしようもないことをただ事実として受け入れて、じゃあ眠って少しでもおさまりゃいいね、て開き直って爆睡したり。リハビリ、無理ない範囲でやってみたり。

わたしをいちばん最後に受けとめられるのは結局わたししかいないから。この命はわたし自身が自由に人生謳歌するための、唯一無二の離しちゃならない、大切なものだから。
忘れんなよ、てえらそうなわたしがぽん、と背中をおす。夜が、やさしく自身を包み込むものであるならば、いいよなと。
でも、そうじゃないときだって、ある。激しい痛みとかそれを悪いことだなんて思わなくてよくて、それでもそれに直面するのは苦しいことだけども。きっと、きっといつか大丈夫になるから。時間はかかるだろうけど、生きていたら、そう思える日が、一人一人に訪れること、無責任だけど願ってる。
決して否定せず、痛みを抱きしめることは難しくても、あなたがあなたのままであれますように。ただ、それだけ想っている。

途中と最後の温度感が情緒どしたん…ってレベルで変わってしまった気がする。自身の病についてももう少し詳しく書こうと思ってたんだけど、感情論になってしもた。今宵はこのあたりで。

良い夢をみられますように。おやすみさんです。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

現在療養中、無職なう!サポートいただけると大変励みになり、心が喜び駆け回ります。いただいたお金は日々の表現活動費(舞台を企画する際の制作費用など)や生きるための力(交通費や夢のため貯金など)にしますので、何卒…!!