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青と灰と黄

 スグルは小さなころ、絵の具が好きだった。筆は使わない。手や足を使って、白い画用紙に塗りたくる。いくつかの小さな手形と足形、それが崩れた線や点や丸の色々は、今も押入れにしまわれているはずだ。ぺたぺたとしたそれらは重なり合い、原色から外れた緑や紫や、もっと濃い色へと変わっていった。埋め尽くされ、隙間もなく。
 それから年月が経ち、2月24日になった。その日、ロシアはウクライナに攻めこんだ。
 スグルは夕飯を食べながら動画を見ていた。直樹がそれをたしなめると、彼は「大変なんだよ」と画面を見せた。ネットニュースは、ロシアがウクライナを攻撃し、少なくとも8人が死亡したと伝えていた。「情報を集めなきゃ」
 直樹は自身の子供のころを思い出した。母は厳格で、食事のときは、テレビはおろかおしゃべりも許さず、黙って食べるものだとされてきた。直樹自身、それを是と思ったことはなく、今は朝食だろうが夕食だろうがテレビがついていることが多い。だが、ときおり直樹はその行為にしこりを感じた。それは罪悪感と呼ぶにはささやかすぎるため、息を吸って吐く間にいつもは忘れてしまっていた。だから、2月24日に感じたつかえは、直樹にとって真新しく感じられるものだった。
 口を開きかけたが、直樹はすぐに閉じた。少なくともスグルは真剣な表情であったし、それを諫めるのは狭量な感じがした。国際情勢に関心をもつこと自体は、悪いことではない。代わりに、そうか、と直樹は答えた。その肯定でも否定でもない言葉は一種の欺瞞であり、直樹はそれに気づいていた。
 それから一週間して、入試の合格発表があり、スグルは無事に私立高校に合格していた。第一志望は逃していたものの、上出来だと直樹は思ったし、スグルもほっとしたような顔をしていた。その日はスグルの希望で、回転ずしの店に来た。妻のすみれが心配していたため、外食は本当に久しぶりだった。
 すしを食べている間、スグルはスマホを眺めていた。今度こそ何か言うべきかと思ったが、めでたい場に水を差すようで、直樹にはためらわれた。
「何を観てるの」
 すみれが覗きこむと、ほら、とスグルは見せた。外国風の街並みだった。まったく動きがないので静止画かと思ったら、「ライブカメラ」だとスグルは言った。「ウクライナの町だよ。定点で中継されているんだ」
 そういうことに疎い直樹は素直に感心した。広場が遠くに映っていて、よく見れば車が行き交っている。平和というか、平凡な映像で、戦争中だとはとても思えない。
「なんだか普通ね」
 同じことを思ったようで、すみれはそう言った。Kyiv。画面内の白抜きの文字を見る。その横では、現在のウクライナの時刻と思しき数字が刻み続けられている。二十二秒、二十三秒。キエフ、と直樹が呟くと、キーウだ、とスグルが訂正した。ウクライナ語ではそう呼ぶのだと、彼は続け、また手元にスマホを戻した。
 それから、スグルはスマホを手放さなくなった。食事も、トイレも、ベッドも、歩いているときも、常に画面を見つめるようになった。たいていはウクライナのどこかの都市のライブ映像が映されていた。日が経つにつれ、アクティブなライブカメラはどんどん減っていったけれど、その国の誰かがゲリラ的に公開するのか、アドレスや撮影場所を変えながら、毎日ウクライナのどこかの風景が海を越え空を飛び、スグルはそれを探し続けていた。
 スグルは学校も休むようになった。受験も終わり、学校に行ったところでせいぜい卒業式の練習ぐらいだったとはいうものの、一日中部屋に籠もっている息子を、直樹やすみれは心配した。決して反抗的ではなかった。ノックをすれば返事があり、中に入れば、スマホを見ながらではあったものの、会話は成立した。しかし彼はウクライナの町を見続けた。
 すみれは不安そうな表情をしていたものの、口出しは特にしなかった。直樹も結果としては同様であった。小学5年生のころ、スグルは今回のように、突然学校に行かなくなったことがあった。本人に訊いても「わからない」という返事が来るだけで、ランドセルを背負ったまま、彼は玄関の三和土から一歩も動くことができなかった。ご褒美で釣ってみたり、無理やり抱えたり、いろいろ試してみたが、どれも上手くいかず、むしろそういった行為はスグルの心の形をより頑なに、固まった粘土のようにさせた。
 そのとき相談したスクールカウンセラーは大柄の女性で、大丈夫ですよ、とよく通る声で言った。大丈夫ですよ、お父さん。「お父さん」と呼ばれることは、もちろん直樹はこれまで何度もあったが、その「お父さん」は自分のもつ瑕疵であるかのように感じられた。カウンセラーの彼女は、スグルがいかにいろいろなことを考え、物事をまっすぐ見つめているかを直樹とすみれに伝えた。それよりも、両親の関わり方をレベルアップさせましょう。お父さん。彼女はそう言い、にっこりと笑った。
 直樹は、当時のことを思い出しながら、紙に線を引いた。真ん中に縦の一本線。まずスグルさんの行動で嫌だなと思うことを想像してください。左側には絶対に許せないこと。右側には条件付きで許せることを選んで書きましょう。直樹は「学校に行かない」を左に書いたあと、それを消して、右側にもう一度同じことを書いた。代わりに、左には「目を合わせないこと」と書いた。それは、小学5年生のときも同じだった。そうなんですよお父さん。あなたが許せないのは、彼が学校に行かないことじゃないんです。
 しばらく直樹は、その表を埋めていった。左よりも右の方がよく埋まった。夕食のときにスマホを見ること、部屋から出ないこと。左には、お風呂に入るのを忘れること、とだけ付け加えた。「戦争」とも書いてみた。だがそれは、何かの冗談で記したように周囲の文字から浮いていて、直樹はすぐに消した。
 その日の夕食も、スグルはなかなか降りてこなかった。直樹は彼の部屋のドアをノックした。「お腹が空いてないんだ」スグルはそう中から返事をした。直樹は五秒ほど考え、ドアを開けた。暗い部屋の中、ベッドの上にスグルは寝転がっていた。青白く、彼の顔はスマホの光によって照らされている。明らかに運動不足の彼の身体はシルエットが不定形で、シーツの中に沈みこんでいた。もっと時間が経てば、彼はそのシーツの海にもぐって浮かびあがることなどなくなるのではないか。そんな突拍子もない空想が浮かぶと、直樹の頭に何かが光った。稲妻のような、花火のような。彼は黙って、スグルのスマホを取り上げた。肝心なことは。よく通る女性の声が言った。自分の怒りをコントロールすることです。直樹はスマホをどこかに投げようとした。でも、投げる場所が思いつかなかった。振り上げた手は宙で止まった。
 スグルはじとっとした目で直樹を見返した。それから、「空気」のことを話し始めた。ゆっくり。「空気」はスグルのあだ名だった。あだ名と呼ぶほど呼ばれたことはないけれど、「空気」という言葉で自分が指されたとき、不思議と嫌な気持ちにならなかった。彼はそう言った。色がなくて透明で、においもない。そんな存在になれたんだとしたら、自分はずいぶん幸福だと思う。でも実際のところはそうじゃないから、みんな苦しいんだろう。僕は動画を観てるとき、そんなことを思い出すんだ。その通りに言ったわけではないのだが、たどたどしく、スグルはそんなことを話した。彼が黙ったころを見計らい、直樹はスマホを返した。スグルはまたシーツに沈みこみ、ライブ映像を見始めた。
 結局、卒業式の日も、スグルは部屋から出なかった。直樹は家を訪れた担任に頭を下げ、証書と小さな花束を受けとった。その間に何回か停戦交渉が行われ、町は破壊され、子供が死に、大人も死んだ。すみれは高校の制服のワイシャツに何度もアイロンをあて、居間のハンガーに吊るした。今年は早い桜のひかりに、窓からま白く照らされている。
 スグルが部屋を出たとき、3月は終わろうとしていた。興奮した面持ちで、彼はドアを開けると、階段を駆け下りた。すみれは買い物に出かけていて、家には在宅勤務中の直樹しか他にいなかった。
「見て! 見て!」
 スグルはスマホの画面を直樹に突き出した。真ん中に電波塔のようなものが見える遠景の映像だった。Lviv、と白いゴシック体が書かれている。「ここだよ、ここ。爆発してる」。 確かに、雲のような黒い煙が背景にあった。画質は荒く、爆発かどうかは判断できないが、そう言われればそのように見えた。
「戦争が起こってるんだ」
 感慨深そうに、何かに納得したかのようにスグルは言い捨て、また自分の部屋に戻っていった。直樹はしばらくぼんやりしていた。頭の中に線を引く。左には自分を、右には直樹を置く。それから、その位置をひっくり返してみる。線を消す。すみれが帰ってきて、夫のおかしな様子に気付き、「どうしたの」と訊ねる。直樹は口を開くが、言葉にはならない。黙って二階の息子の部屋がある場所に、視線を向ける。すみれもそれに倣う。今日は何月何日だ。直樹は考える。
 高校の入学式の日、スグルは制服に袖を通した。少しきつくなったようだが、じゅうぶん大人っぽく見えた。駅のホームでは、数歩分、直樹とすみれから離れ、大きな看板の文字を読んでいた。スポーツフィットネスクラブ。なりたい自分になれる。無料体験実施中。たぶんそんな文字列を、スグルは何十回と目で追い眺めていた。紺色のブレザーは風に揺れている。春のにおいを吸って、スグルも制服も、少し淡い雰囲気になったように、直樹には見えた。
 それから、ロシアとウクライナは停戦に合意した。それでも町では爆発があり、建物が崩れて火事が起こっているとニュースは告げていた。双方が双方を許せないと言い、お互いがお互いを敗残兵だと述べた。線がしっかりと引かれている。左と右に、それは分かつ。
 今でも直樹はときどき、ライブカメラを覗く。前よりも見られる映像は復活してきている。スーパーか何かの前で、人々が並んでいる。みな、リラックスした表情で、おしゃべりをしながら、何かを待っている。つと、その中のひとりの女性が、こちらを見る。カメラを見つけたのだろう。じっと直樹を見る。でも彼女は直樹を見ているわけではない。しかし、直樹にはそうは思えなかった。やがて列は動き出し、画面に人はいなくなる。灰色のアスファルトが、画面に残る。