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さかさ近況㉘


最近読んだもの、見たもの

『絵本のなかの動物はなぜ一列に歩いているのか: 空間の絵本学』矢野 智司,佐々木 美砂(勁草書房)

 めっぽう面白かった。今年は読んだ研究書的なものがあたりが多くて嬉しい。
 タイトル通り、絵本の中の「動物」が横一列に並んで歩くのはなぜなのか、ということなのだが、本書のゴールはそこではなく、絵本自体の研究を通してカテゴリ化し、空間論、物語論として展開していくことに真髄がある。「積み木型」「入れ子型」など分類し、子どもの絵本が均衡回復型から始まり(ばらばらだったものが最後に元に戻る、解決する「おおきなかぶ」「てぶくろ」とか)、均衡が回復しない物語へと移る読書の推移を論じ、読み終わったあとにたいへん充実感の残る著作であった。
 おそらく物語論としても優秀で、ホイジンガやカイヨワも網羅しているため、絵本だけでなく、いろいろな「お話」に当てはめながら考えられる面白さもあった。おそらく、小説としても、「入れ子型」「積み木型」のような形のものも存在するのではないだろうか。本書の言及は一部だが、前著の『動物絵本をめぐる冒険』の「逆擬人化」の考え方(動物を人間的に捉える擬人化ではなく、人との対照として「動物化」させるということ)も登場しており、たいへん面白い。絵本への見方を変えてくれる好著であった。

『インド大反乱一八五七年』長崎暢子(ちくま学芸文庫)

 私は「セポイの反乱」で習ったが、民族独立運動の端緒となったとも言われるインドの大反乱をまとめたもの。あまりにも昔の記憶なのでちょっとわかるか不安だったけど、無駄のない書きぶりで、初学者の私にもたいへん理解しやすかった。皇帝が擁立されながらも内部分裂もあり、いろいろな思惑が絡み合い、反乱が瓦解していく様子はこう言っちゃなんだが読み応えがある。私は結構、この19世紀から20世紀初頭の歴史が好きで、なんだろう、近代の始まりにあたるからなのか、現代にはない勢いが各国あるんだよね、と感じる。良くも悪くも、人間の発展を信じていたというか…。機会があればここらへんを舞台にした物語も書きたい。
 それにしてもイギリスはほんとに悪いやつだなと思うが、まあ、悪くない国なんてないか・・・とも思う。

『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』村上春樹/柴田元幸(文藝春秋)

 故あってライ麦畑を読み返しているのであわせて読んだ。私は翻訳者の話を読むのが結構好きで、「そこをそう訳したのはこういう理由があるのね」というのが、あんまり英語の得意でない自分でもわかるのがおもしろい。当たり前だけど、村上訳にも方針があり、「You」の扱いや、PHONYのような当時のスラング的言葉の訳し方など、サリンジャーの作品自体を深めながら考えていくのは、やっぱりさすがだなあと思う。サリンジャーは前期の作品は読んでいないので、これを機会に読んでみたい。

『みえるとかみえないとか』ヨシタケシンスケ/伊藤亜紗(アリス館)

 いろいろな意味で考えてしまう絵本だった。
 これは、伊藤亜紗の『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)を元にした絵本なのだが、うーん、と思ってしまった。
 物語は、いろいろな星を調査している宇宙飛行士の主人公が、うしろに目があるひとがいる星に降り立つところから始まる。彼らは主人公に向かって、「うしろがみえないの?」「ふべんじゃない?」と言う。この星にとって主人公は「めずらしい」になり、そこに「やりにく」さを感じる。
 すると、同じ星に、「ぜんぶの目が見えない」というひとがいることがわかった。彼は世界の感じ方が違い、「ものをおくばしょをきめ」たり、「つえをつか」ったり、世界の見え方も違う。「「みえないからできないこと」はたくさんあるけど、「みえないからこそできること」もたくさんある」とヨシタケは書く。それから話は、いつもの絵本の調子で、見方や感じ方は、見える見えないだけではなく、人によって違うよね、という感じに進んでいく。
 私は、この「ぜんぶの目が見えない」ひとを、わざわざ宇宙人に置き換える部分に少々もやっとした。たとえば、以下のページを見るとわかるのだが、

『みえるとかみえないとか』P11-12より

 これは、現実の視覚障害の方が感じていることと同じエピソードであろう(未読なのでわからないが、『目の見えない~』の中にも出てくるのかもしれない)。であるならば、なぜ現実にある出来事をわざわざ「別の星」のものとして描きかえる必要があったのか、それは逆に、現実の障害に対する諸問題を曖昧にし、位相をずらすように、大事な部分を覆い隠すことになりはしないのか。
 と、思っていたのだが、本書に挟みこまれていた対談の小冊子の中で、ヨシタケ氏も同じことを書いていた。以下引用。

今回、僕が一番勇気が要ったことが、目の見えない人を宇宙人として登場させたことです。
 最初は、主人公に近い人(中略)というアプローチからはじめました。でも、白杖を持って歩いている人を絵に描いてみると、どうしても「かわいそう」に見えてしまう。(中略)本来、「健常者」や「ふつう」って、時代や国によってばらばらで、あてにならないものなんですよね。だから「ふつう」がすでにない状態を描くしかないと思いました。

「この絵本ができるまで」

 氏は、「本を閉じればそこは地球で、健常者中心の社会がある」と続け、だから絵本の構成も地球や宇宙を行ったり来たりする「アクロバティックな本」になったと言っている。私が違和感をもった根本部分は、氏の関心の対象はあくまで障害者自身とその身体性であり、私の関心が障害に対する社会的立ち位置から生まれる齟齬なのだろうと考えると納得はできた。「おなじところをさがしながら/ちがうところをおたがいにおもしろがればいいんだね」という最後の文もそれを表している。
 ただいかんせん、どうにも説教臭い。戦前(戦中)の教育的訓話絵本の絵をマイルドにした感じのように思えてしまい、うーん、とは感じてしまう。「それぞれ」違うと言いながら、この絵本の読後感の方向はあまり「それぞれ」に思えないので、矢野氏の著作を読んだあとだと、そう言った絵本のもつよさを消してしまっているように思えてしまうのだろう。子どもが好きで、うちには氏の絵本がたくさんあるのだが、年々そういう傾向が強くなっている気がする。

「猫の上で暮らす一族の話」冬乃くじ

https://virtualgorillaplus.com/stories/nekonouedekurasuichizokunohanashi/

 このまえ実家の猫が死んじゃったので、どうしようかなあと思っているうちに時間が経ってしまった。読んでよかった、という話だった。
 題名通り、猫の上で暮らす「ハラ系」とか「ヒタイ系」などと呼ばれる存在たちの交信の話。冬乃さんは、命の扱い方の手際が良くて、この謎の存在がとても身近で確固たるものに感じるように書けてしまう。ないものがそこにあるように描く、というのはSFの手付きとして私はとても大切なことだと思う。とりあえず猫は元気で、そして最後の明るい終わり方でよかった。

「せんねんまんねん」蜂本みさ

https://virtualgorillaplus.com/nobel/kaguya-planet-july2023-3/

 すごい物語だった。だけど、この小説のすごさは、ストーリーにはないと思った。序盤を読めば、ある程度展開は予測できる。表層のテーマ自体は特に目新しいものではない。しかし、それでもなお、読者の心を揺り動かす力がこの物語にはあり、それがこの小説のすごみなのだろうと思った。
 この物語は「声」だ。「声」の半分は、作者の描く方言だ。「関西弁」などとひとくくりにしてしまうが、その時代性を丁寧にすくい、表現している。言葉で距離を表現し、「戦争」でその距離をゼロにする。この部分に巧みな技を感じる。「声」のもう半分については、まだ私にははっきりとはわかっていないが、良い物語にはささやく声が聞こえる。たぶんそれがはっきりとわかるようになると、私にもこういう「声」の聞こえる物語が書けるのだろうと、羨望をもって考えた。

『君たちはどう生きるか』

 以下めっちゃネタバレなので、改行をたくさん入れてみるよ。
























 事前に予想していたよりも王道で、たいへん楽しめた。一切の情報を出さない、という方法は賛否あるのかもしれないが、個人的には、この話はあらすじにしてしまうことで「王道感」が出てしまい、そこを味わう楽しみが減ってしまうと思ったので、これはよかったと思う(格差云々の話も見かけたが、最速初日を意識しなければネットに感想やあらすじは出そろうわけで、いろいろな層でネットに全くアクセスできない層はやや想像しがたく、私はそうかなあと感じた)。
 もやもやと感じていた部分は、松樹さんが記事にしてくれたので、これを読んでくれればいいと思う(めっちゃバズってる)。

 ナツコに恋してるだろ?というのは私も思っていて、最初に出会う人力車の場面、あそこ、こう、エロいよね…。だから、生まれる前のナツコ=ヒミと冒険するところは、「BTFじゃん…!」と思った。
 たぶんもう誰かがどっかで書いていると思うけど、宮崎作品は「代理母」がよく出てきていて、それはラピュタのドーラであったり、千尋の銭婆であったりするわけだけども、だから、今回ナツコを「母」と認めるくだりがなかなか興味深いと思った。もののけ姫なんか顕著だけれど、血のつながりがない(大なり小なりの)共同体を描いてきた宮崎作品で、明確にその存在が「母」と物語途中で定められるのは珍しいのではないだろうか。「母さん」と呼ぶサンとモロの関係が近い感じはするが、眞人が叫ぶ「ナツコ母さん」は、やや唐突に感じられ、それを「失恋」の意趣返しだという松樹さんの論考はおもしろい。言うほど「母親」だと思ってないだろ、という部分が唐突感を生み、あとから違和を生み出す『もののけ姫』のサンとモロの関係の逆バージョンのように感じた。ここらへんは、『文藝』2022年春季号で水上文氏が書かれた「母殺し」と「母の産み直し」の視点からも(やや批判的に)論じられそうな気がするが、元気がないのでここまでにする。
 前にどっかで、コクリコ坂の階段を降りるシーンで、「人間の膝はこんなじゃない」みたいなコメントを宮崎監督がしていた(うろ覚え)のだけど、冒頭の階段を駆け降りるシーン、それに続く群衆、火事の場面は圧巻だった。「ぬるい画かいてんじゃねえよ」という叱咤のように思えた。







「ニューヨークの魔女」をマンガにしたよ

 これも良い作品だと思うぜ…と思うので、マンガにしてみた。

 私はまったく絵が描けないのでAI任せだったが、それでもすごいたいへんだった。でもけっこう楽しかったので、またなにかでつくるかもしれない。

持続可能な小説のために

 ツイッターくんはなんだかよくわからないことになってるんですが、ときどき「おすすめ」のTLを眺めると、あまりおすすめでないツイートも流れてきて、この前目についたのが、自費出版で本を出そうとしたのだけど妻がごねてきた、みたいなもので、うーん、と思ってしまった。
 あくまで私の持論だが、創作活動はあくまで余技・余暇であり、家族に迷惑かけてまでするもんでもないだろう、と考えている。さすがに太宰治みたいな人はいないと思うが、精力的につくっているあなたの夕食を用意している人は誰か?皿洗いは?洗濯は?ゴミ捨ては?ゴミ袋つけかえてる?保育園の書類書いた?子供の薬の管理は?締切前だって子供は熱を出すんだぜ、などなど、全くひとりで生活しているのでなければ、そこらへんのところが気になってしまう。
 私はそこらへんがすごい気になってしまうので、育児や家事は創作活動をする前と後で分担の量を変えないように、というかむしろ増やすようにしてきた。かといって、睡眠を減らしたりとか、自分の身を削るということもしないようにしている。「小説なんて書くから…」と相手に思われてしまうと嫌だなあという思いもあるが、システムを構築するのが好きだというのもある。亀の私は軌道に乗るが遅いのだが、自分の中で仕事や生活のシステムを確立してしまうと、けっこう上手に回せるようになる。し、それが活動のエネルギーにもなっていく。もちろん、創作に関わらず、生活していればまったく迷惑をかけないということはたぶんできないので、感謝と折衝は常に大事だという前提はあるにしても。余技をやらせてもらってる分、相手へのリターンは大切だ(本業にしている人もそうだろうが)。
 まあでも、これはn=1の私の体験である。私はたまたま料理とか子供が好きなのでやっていけているが、そうじゃない人もいるだろう。「小説だろうが絵だろうがどんどんやっちゃえよ!」というタイプの人もいるかもしれない。何か読み返すとすごい偉そうだなと思うし、私だってパーペキにできているわけではないからイザコザはある。意見は表明するが、いろいろな生き方があっていいと思う。だけど、基本的には小説より家族が大事だと思うので、80点ぐらいを目指してみんなやって欲しいなと思うし、独り身の人も、自分を大事にしてほしい。あなたが病気になったり死んじゃったりしたら、やっぱり悲しいよ。
 という感じでやってきたわけだけど、ありがたいことにコンスタントにご依頼をいただくようになってくると、さすがに公募に出すのが辛くなってきた。今までは、仕事と家事と育児の合間に公募に出す小説を書く、という感じだったが、仕事と家事と育児の合間に依頼の原稿を書いて、その合間に公募用の小説を書く、みたいになってきて、クオリティの低下が自分でもわかるようになってきた(さなコンも創元ミステリもだめだったし…)。公募の切った張った感が好きなのだが、これはいろんな方面に申し訳ないので、ちょっと手をひかざるを得ないだろう。かぐやSFも出したいなあと思うんだけど、どうかな…9月締切のが山ほどあって…。
 とかなんとか言いながら、どっかで坂崎の名前を見かけたら失笑してやってください。