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「君たちはどう生きるか」における母と石と悪意のこと

 宮﨑駿監督の最新作「君たちはどう生きるか」を観た。
 最高。ぼくはそこまでジブリファンというわけでもなく、宮﨑駿という人についても語れるほど詳しくはないのだが、ともかく観ている間ずっとワクワクする映画だった。特に前半のお屋敷パートが異様に面白く、中でも盗んだタバコで使用人を買収して弓矢を作るところが素晴らしい。中盤に入って異世界での物語が始まると若干心配になったが、それでもちゃんと面白いのだからすごいと思う。この手の(精神分析ちっくな)異世界巡りは児童文学の王道ではあるが、映画にすると大体説明的な観光ツアーになりがちで、失敗作の直行チケットという印象だったのだが(具体的な作品名は各自で思い浮かべてください)、そうならないのは流石としか言いようがない。キリコの家で寝かされる場所が机の下だったり(序盤から反復されている四つん這いの動作を自然にやらせるためだろう)、主人公が現実の世界と同じテンションで異世界のものごとに接していたり(現実だと無口なくせに異世界に来るとわざとらしくリアクションを取っちゃうタイプの作品は萎える)、色々なところに工夫が凝らされていて勉強になった。
 そうかと思えば、笑ってしまうような謎のシーンもあって、それもまたよかった。ダントツに好きなのが、終盤に大叔父様と主人公が問答するシーンだ。大叔父様が白い石を見せながら、これで塔を作りなさいと主人公に言うのだが、ここで実際に白い石を積み木の塔に「スウッ…」と差し込む映像が挟まれる。信じられないくらい説明的な絵面がいきなり現れるので、あまりのシュールさに吹き出しそうになってしまった。いや、そんなに丁寧に説明されなくてもわかりますよという感じだし、そもそも「観客のためにいちいち説明したりしないぜ」という雰囲気の映画なのにそこだけ親切になるのも意味がわからん。しかも、その石を入れる場所、バランス的に微妙じゃないか?もっと根本の方に入れないと却ってバランスが悪くなって塔を支えられないと思うんだが……。

 とまあ、こんな感じで大変に楽しめたし、あれこれ言語化するのも野暮かなという印象を受けたので、正直記事を書くつもりは全くなかった。のだけれど、ネットで考察や感想記事をいくつか読んだところ、自分の読み取っていたストーリーと全然違うものばかりで、「もしかして全く別の映画を見ていたのか??」と不安になってしまったので、同じ読み方をした同志を探す意味もこめて、自分なりの解釈を書くことにした。なお、宮﨑駿についてもスタジオジブリについても詳しくないので、そういう方面から読解を試みることはしない(できない)。あくまで、こういうふうに観た人もいるんだな、くらいに思って欲しい。

母の死について

 まずはじめに、本作の舞台設定について一つだけ書いておきたい。主人公の眞人は太平洋戦争中に火事で母親を亡くし、その一年後に母の妹(父と再婚してるっぽい)のお屋敷へ引っ越すことになる。
 で、ここが問題なのだが、この一番冒頭のシーンを「東京大空襲(による火事)で母親を亡くした」と書いている記事が結構ある。個人のブログだけでなく、ある程度ちゃんとしたメディアの記事を読んでもそういうあらすじを書いているところが多い。が、これはおそらく間違いだと思う。母親が死んだのはただの火事(原因は明かされていない)であり、空襲によるものではない。火事で母親を亡くしたのは1943年であり、ナツコさんの屋敷に引っ越したのは44年だ。これはオープニングでのナレーションや、ナツコさんとの朝食の席で父親がサイパンの戦いについて話していることから明らかで、東京への空襲が始まったのはサイパンの戦いのあとだから、母親の死は空襲によるものではないだろう。(そもそも、作中では一貫して「火事」と呼ばれているし、空襲を具体的に示しているものは何もない)。
 これはまた、物語的にもかなり重要な部分である。母親の死を招いた火事について、作中ではその原因が全く説明されない。どうして病院が燃えたのか、その炎がどこから来たのかについては伏せられている。まさしくこの「原因不明」という部分が大事なのだ。というのも、物語の最後で少女時代のヒミが自分の未来を知りながら「わたし、火って全然嫌じゃないわ」というセリフを放つからである。もしもあの火事の原因がB29から落とされた爆弾なのだとしたら、ヒミを殺したのは他者(アメリカ)の悪意だということになり、ヒミにこの台詞を言わせることは不可能になってしまう。彼女を殺すのは、あくまでただの「火」でなくてはならないのだ。

産屋と墓と石

 本題に入ろう。本作には大きく分けて二つのあらすじがある。一つは「眞人がナツコさんを探して石の世界に行き、彼女を連れ戻す話」であり、もう一つは「眞人が大叔父から石の世界の後継者になって欲しいと頼まれ、それを拒絶する話」である。厄介なのは、この二つの話が並行して語られるにも関わらず、両者が互いに関係ない全然別の話に思えることだ。(ナツコさんを助けることと、石の後継者云々の話は直接的には何の関係もない)。そのため、全体的になんだかごちゃごちゃしていてスッキリしない話のように思えてしまう。
 この映画を見終わった後で考えたのは、「この二つの話は、実際には同じ一つの話を別の面から語っているのではないか?」ということだった。つまり、これらは二つとも石の後継者に関わる話なのだ。
 まず、一つ目の話から見てみよう。この作品でよくわからない点の一つが、ナツコさんはなぜ石の世界(の産屋)に行ったのか、ということである。眞人の怪我を見て自分の出産のケガレのせいだと責任を感じたから…という考察も読んだりしたが、どうも説得力がないように感じる。作中では「子供を産むため」だとヒミによって説明されているが、個人的には全くそうは思えなかった。そもそも、ナツコさんには子供を産む気があったのか?本当は産みたくなくて(というか結婚だって嫌だったのでは)、だから石の世界に行ったのではないか?そもそも、家をでた時のナツコさんの服装は死装束っぽくないか?と思えて仕方がなかった。
 何より、ナツコさんのいる産屋というのが、どう見ても墓場っぽい見た目をしている。これは単に見た目だけの問題ではなく、この産屋が石造りであることからも説明できる。眞人が大叔父に対し「これは積み木じゃない。石だ。墓場と同じ悪意のある石だ」と指摘するシーンがある。つまり石=墓なわけで、産屋もまた石でできているわけだから、産屋=石=墓ということになる。これはただの憶測なのだが、あの世界において産屋は墓と繋がっている……というより、産屋がイコール墓場であること、産むことが死ぬことと等しい(死のなかに産み落とす)ことこそが、あの世界を定義づけるものなのではないだろうか。「下の世界」はすでに死んだものたちと、これから生まれ出るものたちが共存しており、彼らは生の反対物であるという点において共通している。ナツコさんは「子供を産む」ために石の世界に閉じこもるのだが、それはつまり石の世界「に」子供を産むということであり、現世からすればそれは「子供を産まない」ことと同義である。
 このことはまた、ヒミの物語によっても補強できる。彼女が自分の死を知らされながらも現世へと帰るのは、眞人に再び会うため、彼を産むためである。(感動的であると同時にドン引きするシーンだ)。つまり、石の世界の中にいる=産まないことを選ぶ、石の外に出る=産むことを選ぶ、という構図がここでは成立している。このことから考えても、ナツコさんは子供を(現世に)産みたくなかったがために、石の世界に閉じこもったのだと思われる。
 そして、そのことは「石」の意志とも合致する。石の世界に産み落とされたナツコさんの子供は、血筋的にこの世界の後継者となれるからである。(眞人を後継者にしたいと考えているのは、あくまで大叔父であって石ではない)。ナツコさんは子供を現世に産みたくない。石は後継者が欲しい。両者の利害が一致した結果、彼女は石の産屋で厳重に保護されることになる。だからこそ、眞人が彼女を連れ出そうとした時、石は猛烈な妨害をしかけるわけだ。
 つまり、一方ではナツコさんの子供を石の後継者にしよう、という話があり、もう一方では眞人自身を石の後継者にしよう、という話がある。そして結局はそのどちらの試みも失敗に終わり、石の世界は崩壊することとなる。
 繰り返しになるが、石の世界とは産屋と墓が繋がっている世界、生まれることと死ぬことが等しい世界である。そこでは、全ての存在が死の中へと産み落とされ、「生まれ出る」ことが決してできない。(ワラワラは上の世界へと生まれ出るはずの存在だが、大叔父がわざわざ連れてきたペリカンによってバクバク喰われてしまう)。それは出生の否定である。眞人たちは出生の否定を否定することで、己の生を肯定するのだ。

母、恋、悪意

 では、そもそも眞人はなぜ、あそこまでナツコの救出に執着するのだろうか。ざっと見た感じ最も多かった解釈は「眞人は新しい母親を受け入れることができずに冷淡な態度をとってしまっていたが、母親が残してくれた本を読んだことで改心し、自らの過ちを償うべく救出に向かった」というもののようだ。
 確かにこれは自然な解釈ではある。少なくとも、全体の辻褄は合うので間違いだとは言えないだろう。ただ、どうもスッキリしないところはあって、「そもそも言うほど冷淡な態度を取ってたか?(そりゃちょっとは失礼だったかもしれないけど)」とか、「父さんの好きな人を助けるんだ、と本当に考えているなら、どうして父親をああも露骨に排除しているのか?(産屋に行く直前に、わざわざ父親に別れを告げさせている)」とか、色々と思わなくはない。実際、僕自身は初見時に全くこういう見方はしなかった……というか、考えもしなかった。

 ここからが、あまり他に言っている人を見かけなくて不安になっている部分なのだが……眞人くん、ナツコさんに恋してるよね????欲情してるよね????「年若き継母に抱いた淡い恋心、少年期の性の目覚め」だよね??????
 なぜそう思ったかというと、第一にナツコさんが大変エロティックに描かれている(特に人力車に乗るところ)からである。この作品は、かなりの程度主人公である眞人の主観によって描かれているところがあり、冒頭の火事のシーン(病院へ駆けていく眞人の一人称視点)の時点ですでに、「今回は主人公の主観で話を描いていきますよ」という宣言がなされている。だからこそ、序盤のアオサギが不気味な死神のように描かれたりもする。つまり、本作においてナツコさんがエロティックに描かれているのは、眞人の目に彼女がそう映っているからに他ならない(はずだ)。
 そしてまた、船の上でキリコと会話するシーン。ナツコと言う人を知りませんか、と眞人が尋ねると、キリコは「好きな相手かい?」と揶揄う。それに対して眞人は「僕の父さんが好きな人です」と返すのだが、これはもう「はい、僕の好きな人です(でも父さんと結婚してるんだ)」と言っているに等しい。この一連の会話で、僕はああ眞人はナツコさんに恋してるんだなと確信した。
 眞人がナツコさんに恋していると仮定すると、こういう話になる。彼は死んだ母親のことを忘れられないが、それよりも一回り若い母の妹のもとで暮らすことになり、彼女に淡い恋心(ありていに言えばエッチな気持ち)を抱いてしまう。当然、彼にとってみればそれは母に対する裏切りなので、許されることではないとも感じている。そのせいで、彼はナツコさんとうまく接することができない。ところが、母親の夫(つまり自分の父親)はナツコさんとあっという間に再婚し、子供まで作っている。おまけにキスするところまで見てしまって、もう最悪だ。ナツコさんは僕の父さんが好きな人なんだ……となって、ますます顔を合わせづらくなってしまう。そうこうしているうちにナツコさんは失踪し、眞人は彼女を助けるために塔に向かう。別に彼女のことが好きだからではなく、僕の父さんの大切な人だから助けるんだ、と言い訳しながら。
 こう考えると大叔父と眞人の違いも見えてくる。端的に言えば、それは〈性欲〉の有無だ。
 そもそもの話として、この大叔父の世界には根本的な欠陥が1つある。それは、石との契約によって、大叔父の血を引く人間しか後継者になれないにもかかわらず、彼自身には子供を作る気が全くない、ということである。「お待ちしておりましたゾ〜〜〜〜じゃなくて、まずお前が自分で後継ぎを作らんかい!」という話なのだが、どうもこの人にはその気が全くない。現世への出生を否定するような世界を作った人間なのだから、当然と言えば当然なのだが、そのせいでこの世界は大きな矛盾を抱えることになっている。生殖を否定している当の世界が、けれど他の誰かの生殖によってしか維持され得ない、という矛盾である。
 大叔父は眞人に「悪意に染まっていない」13個の石を託そうとする。眞人も自分と同じで〈性欲〉がないと思っているからだ。しかし、眞人は自分でつけた頭の傷を見せて、これは自分の悪意の徴であり、自分にはその石を受け取る資格がないと言う。自分の頭を石で殴った理由については、一般的に「周囲の大人を騙して騒ぎにして学校に行かなくてもよくするため」だと解釈されているが(それももちろんあるとは思うが)、個人的にはむしろ「ナツコさんの気を惹くため」ではないかと感じた。(しかし、結果として寝ずの看病をしてくれたのはナツコさんではなく婆やだったし、肝心のナツコさんは責任を感じて体調を崩してしまう)。つまり、眞人が言う「悪意」とは、ナツコさんへの恋心なのではないだろうか。「彼女は父さんの好きな人です」と言っていた眞人は、ようやく自分の恋心を自覚して引き受け、それを抱えて生きていくことを決める。そして、それが可能になったのは、産屋でナツコさん自身に「大嫌い」だと拒絶されたからであり、ナツコさんのことを「母さん」と認めることでその失恋に決着をつけたからなのだ………。
 だから、この物語の終わりというのは、見かけほど明るいものではない。というか、かなり歪である。まず、眞人はナツコさんにフラれる。「あんたなんか大っ嫌い!」と拒絶される。すると、すかさず彼は「ナツコ母さん」と呼び、自分たちの関係を母と息子の関係に持ち込む。これは一見すると、二人の和解のシーンだが、実際には自身の性的欲望を挫かれた眞人が、その破綻を取り繕っているわけである。ナツコはこれにより「母」になってしまい、眞人を拒絶できなくなる。(代わりに、眞人もナツコを性的欲望の対象にできなくなる)。眞人自身、この歪さを自覚している。それは彼の「悪意」である。彼はその「悪意」とともに生きていくことを選ぶ。
 ナツコというキャラクターが「恋人(にできなかった女性)を母親にすること」を意味しているとするなら、ヒミはその反対に「母親を恋人にすること」を意味している。眞人の産みの親であるヒミは、石の世界で彼と出会うことによってむしろ恋人へと変わる。通常、母とは子供を産んだから母なのであり、産んだからこそ子供を愛するとされているが、少女時代のヒミが眞人と出会ったことによってこの因果は逆転する。ヒミは眞人のことを産んだから愛するのではなく、愛したからこそ彼を産むのだ。そして、この逆転によって、眞人は「父」によって禁じられている「母」との恋愛を実現することが可能になる……と、あまり書くと精神分析的な話になりそうなのでこの辺にしておくが、ともあれ、恋人が母になり、母が恋人になることで円環が閉じ、眞人と「母」の物語には決着がつく。これはかなり歪な終わりであるように思えるが、それでも本作のラストにはどこかカラッとした雰囲気が(己の欲望の歪さの上に開き直るのともまた違う)流れていて、個人的にはそれがとても好ましく感じた。

 最後に、本作で一番印象に残ったラストシーンについて書く。
 映画は戦争が終わったあと(まるで何事もなかったかのように)東京へと帰る眞人たちの姿を描いて終わる。母親に呼ばれ、彼は自分の部屋を出る。ドアを開け、それがパタンと閉まる。(ドアを開ける動作は作中で何度も反復されている)。痺れる終わり方だ。凡庸な作品なら、ここで部屋の机に残された白い石の欠片とかを映してしまいそうだが、そういうのは一切ない。おそらくはアオサギの言葉通り、彼はもうあの世界のことをほとんど忘れてしまっているのだ。残っているのはただ、母親から渡された一冊の本『君たちはどう生きるか』だけである。明らかに自身の創作世界を反映させた「石の世界」を崩壊させ、わずかな欠片だけを主人公に残したあとで、それさえも最後には失わせる。その忘却が残す余韻がとても美しい。物語は失われる。わずかな思い出すら残すことなく。そして、「君たちはどう生きるか」という、ただその問いかけだけが残るのだ。

【追記】
最後のシーンについて「ポケットの中のものをチラッと見ようとする場面があったよ」という指摘をもらいました。全然覚えてなかったですごめんなさい……。


 


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