wives

 今日、母が、「アジャイル」を使った。
 いつもと同じ夕餉の食卓だった。僕は仕事を定時であがり、帰ってきてすぐに風呂に入り、頭も乾かさずに席に座っていた。豚の生姜焼き、キャベツ、トマトのみそ汁、ごぼうと鶏肉の炊き込みごはん。特別変わった献立ではなかった。僕は静かに「いただきます」と言い、母は「どうぞ」と小さく答えた。僕は最初にキャベツを食べる。野菜から食べるのが、小さい頃からの僕のルールだった。テレビでは七時のニュースが流れていて、日本海側で大雪が見込まれるという内容の話を淡々とアナウンサーが告げていた。
「だから私もアジャイルしようと思うの」
 母は何事かを話し続けていたのだが、僕は大雪対策を行っている市民の声に気をとられていて、その発言の前後を聞き逃していた。ゆっくり母の方に向き直り、声は出さずに、もう一度という表情を見せた。母はすぐに悟り、「町内会の話よ」と答えた。
 町内会、アジャイル。僕はよくわからず、再度、理解が困難であるという表情を作った。母は「大した話じゃないわよ」と、結局その先を続けなかったため、僕は話の要点をつかみそこねた。つかみそこねたまま、豚肉は姿を消し、ごはん粒の最後の一粒をとり終え、僕は「ごちそうさま」と、席を立った。アジャイル。二階の自分の部屋に戻りながら、僕はその言葉を口の中で噛み締めた。味はしない。
 翌日、土曜日だったが、母はいそいそと身支度を済ませると、朝早くに家を出た。どこに行くのかという僕の問いかけに、「だから昨日話したでしょ」と答え、そのまま行ってしまった。朝食も食べていなかった僕は、しばらく閉じたドアを見つめただけで、もう一度自分の部屋に戻った。
 母はその日帰ってこなかった。携帯電話に連絡しても、呼び出し音が鳴るだけで、留守番電話にもならない。ただ、夜の十時に、「今日は遅くなります。夕飯は冷蔵庫に入っています」というメールが来た。確かに冷蔵庫にはロールキャベツと豚丼が入っていて、温めればすぐに食べられる状態だった。僕は律儀にそれをレンジで温め、「いただきます」と言って、黙って食べた。それから、食卓に置かれた写真立てを眺めた。母と僕が並んで写っている写真だ。結婚したての頃で、母は若く、微笑んでいた。
 夜の十二時を回ったところで、近くの交番に行った。警察官はいなかったため、机に置かれた電話で話した。
「うーん」
 受話器越しの、定年間際のような声を出す警察官はうめいた。それは確かにうめき声だった。
「連絡もある。夕飯も用意されている」
 だけど、という僕の言葉は届かない。
「もちろん行方不明者届は出せますよ。それは自由ですから。どうします」
 僕は少し黙り、結局「もうちょっと待ってみます」と口にした。警察官はあからさまにほっとした様子で、こう付け加えた。
「まあ、アジャイルしているんなら大丈夫じゃないですかね」
 それは、と聞き返そうとしたところで、電話は切れた。
 母は翌朝早くに帰ってきた。「ただいま」と、独り言みたいに誰かに呼びかけ、靴を脱いだ。ぼうっと立っている僕に、「これかけといて」と、コートを差し出した。深く淡いワインレッドのチェスターコートで、見たことがなかった。
「お腹空いたでしょう」
 朝は七時を回っていた。母は着替えるとエプロンをつけ、台所に立った。みそ汁の香りと、ご飯が炊けるいい匂いが漂ってくる。どこに、という僕の問いかけに、母は苦笑交じりで、
「町内会って言ったじゃない」
 と、諭すように答えた。ごはん、エビとタラのみそ汁。目玉焼きとベーコン。ナポリタン。ハンバーグシチュー。いただきますとごちそうさまが、朝の白々しい光の中で繰り返される。
 それから母は若返るようになった。皺が少なくなり、髪の毛に光沢が戻った。仕事も始めた。駅前の印刷所の事務だ。時々残業もするようになり、冷蔵庫に夕飯が置かれることも多くなった。あんこう鍋、鰻と枝豆の煮凝、チキンカチャトーラ、わかさぎのエスカベーシュ。僕はひとり食卓に座り、ニュースを眺め、食べ、皿を洗った。時々、食卓の写真を見た。写真の中で母と並んで写る僕は固い顔で、似合わない髭面をしていた。
 休日出勤も増え、暇を持て余した日曜日の僕は、散歩をするようになった。町はいつもと変わらない。子供の頃から住んでいる町だ。特級河川の錆びた看板、鳴かない蝉、小型の翼竜、暇そうに地べたに坐っている検査員。時折、「アジャイル」と、口に出して、舌で転がしてみる。だんだん味がわかるようになってきた。
 ある日の夕食で、母はまた喋り続けていた。ニュースでは今年の梅の開花を告げていた。「どう思う?」と彼女は訊ねた。「いいと思う」と、僕は答えた。そうじゃなくて、と彼女は続けた。「あなたの意見を聞きたいの」。僕は箸を置いた。
「つまり、アジャイルしたってこと?」
 彼女の顔は一瞬曇り、それから、ため息をついた。出来の悪い子供が、出来の悪いケンカをしてきて、出来の悪い言い訳をしたみたいに。
「あなたが、そう思うなら、そうなんじゃない」
 それから、少女の様に肩をすくめ、食事を続けた。むかし、とおいむかし、こんなやりとりを、したことがある、気がした。


【自作解題】
今回は、どの程度の解像度で作者の意図した内容が伝わるのか、というところを中心に書きました。初稿はかなりふわっと書き(題名もシンプルに「アジャイル」でした)、そこから肉付けをしていくという方法をとりました。

もちろん読み方や印象は千差万別ですが、作者が意識をしたのは、

・「母」はどうやら元々は「僕」の「妻」であること
・何かの理由で「妻」の見方が「母」に変わったということ

です(題名や写真のくだり、時間的な混乱が見られる「翼竜」「蝉」など)。この「何かの理由」もいくつか考えていて、「僕」が「アジャイル」により既に「若返って」いた、実際に「母」が変化したわけでなく、「僕」の視点が「アジャイル」によって変化してきた、などを想定していました。「僕」を旧来の家長的な感じで描いたのはそのためです。その点を焦点化して読んでいる方もいて面白かったです。

「アジャイル」の語は、開発用語で、「迅速に」ぐらいの意味だったと思うのですが(普通のPDCAサイクルより短い期間でフィードバックを繰り返すぐらいの意味?)、「くしゃがら」みたいな意味不明な単語よりも、何となくふわっとした感じが出てよいかなと思い使いました。