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さかさ近況㉑

創元の最終に残ったよ

 第14回創元SF短編賞の最終に残してもらった。ありがたい。4日間で初稿を書き上げた最速記録のものだが、けっこう自信のある作品だったので、残れなかったらまあまあ凹んでたと思う(落ちてたら「そんなに自信なかったからなあ」と認知のすり替えを行っていたと思う。そんなもんだ)。
 鋭意改稿中である。私は基本的に改稿とか推敲とかが好きなので、楽しくやっている。もちろん、どうにもならない作品の改稿とか推敲は苦しい。そういうのは大人の事情がなければすっぱりボツにしちゃった方がいい(が、そうできないこともある)。編集の方からのコメントもびくびくしながら読んだけど、非常に的確なご指摘で(しかもわかりやすい)、まあそりゃ、プロだもんなあ…と当たり前のことを思ってしまった。物語の伸びしろを見てもらえるのは本当にうれしいことだ。
 敵は時間である。ただいま様々な原稿に囲まれているので、とにかくこいつの最高を引き出せるようにがんばりたい。

文學界5月号に載るよ

「母の散歩」という短編が、「12人の”幻想”短篇競作」という企画に載る。これは、「私の犬」という、前に書いた1000字程度の掌編の屋台骨だけ借りて、大幅に膨らませて書いたものである。犬の不在小説だ。

 他の執筆陣がすさまじい。特に、山尾先生の名前をお見掛けして、ふへええとなってしまった。楽しみでもあり、怖くもある。
 締切より10日ほど早く送ったのだけれど、大木さんの「二十七番目の月」を読んで、「オレの作品はこんなんじゃだめだ…」と打ちひしがれて、もう一回改稿を重ねたものでもある。ので、ご一緒できるのはたいへんうれしい。
 ちなみにこれは、私の営業の結果である。新人作家諸君、賞をとって依頼が来るまでパソコンの前で待つ時代は終わったようだぞ(始まってたのかは知らない)。

最近読んだもの、見たもの

『赤の自伝』(書肆侃侃房)アン・カーソン (著), 小磯洋光 (翻訳)

 もう冒頭から引き込まれてしまった。「彼が現れたのは、ホメロスの後にしてガートルード・スタインの前という、詩人にとって困難な期間だ」。私好みの始まり方である。
 ステシコロスの「ゲリュオン譚」から生まれたという「ヴァース・ノベル」(詩と小説の合いの子)ということだが、この形式がとっても気に入ってしまった。怪物ゲリュオンは、ヘラクレスに殺されるのだが、ステシコロスのそれも、ゲリュオン視点で描いており、英雄視点で描かないところが革新的だったということ。『赤の自伝』は、ゲリュオンの神話の再話だ。現代に置き換え、ヘラクレスとの性愛も交えた交流が描かれる。ただ現代的なものが出てくるわけではなく、そこには譚で描かれることのなかった(だろう)、あるいは、そこに潜んだ心情やストーリーが、非常にマッチして書かれていてたまげてしまった。何より、これは日本語の訳文がすばらしいのだろうとも感じた。詩の訳というのはかなり難しい翻訳のひとつだろうが、(読んでないけど)原文のものを損なわないと思わせる、一定のリズムのある文章だった。

「エイリアンステイツ・51からの大統領選遊説」長谷川京

 エイリアンが大統領を目指すために遊説を行う、というストーリーと、「ドン・キホーテ」を絡めたバディものという設定で面白かった。未来のことを描きながら、そのアメリカのイメージは自由と勝利の古典的なイメージというギャップも、映画的でよかった。種明かしの部分が、種明かしっぽくって、ちょっと気になった。けど、このまま映像化して回せるような、スピード感のある物語でGoodだった。

「楕円軌道の精霊たち」関元聡

 ようやく読むことができた。神話の話から始まり、新たな神話を再現して終わる、という構成が素晴らしい掌編だった。既存の科学技術への目配せも過多にならず、前回のものよりもさらにレベルアップしている感触を受けた。まだまだ面白いものが書ける!という予感のする物語だった。

『少女革命ウテナ』

 昔見た気がするけど、がっつり見たわけじゃないから、アマゾンに来てたのでぼちぼち見ている。
 四十話以上あるから、なんというか、たぶん設定がぶれたりとか、この話必要ないんじゃないかな、というものもある。でも面白い。最近の…と語れるほど見てないからわからんけど、今のアニメはけっこう練られてる分、こういう大味のよさみたいなものは失われている気がする。七実さまの話なんて本筋には関係ないのが多いのに、でもやっぱり必要じゃないですか。圧倒的ななにかでぶん殴ってくるのを見ると、作家性というのは大事なのかなあとも思う。

公募ガイドさんへ

 今年は太宰がアレだったからイマイチかなと思ってたけど、公募がまあまあ残っていて嬉しい。
 私が公募に出す理由は三つあって、ひとつは締切ができること。締切がないと私はあんまり書けない。意志が弱い。おしりが決まってると、とりあえずそこに向けて書く。私の数少ない長所のひとつに、出すと決めた公募には必ず出すというのがあって、出来不出来はおいといて、作品を期日までに畳めているのは、よい訓練になっている。
 二つ目は、名前を知ってもらう機会になっているということである。残念ながら、ひとつ賞をとって、あちこち出版社からお声がかかるなんてことはどうも少ないように思える。特に、私のように短篇しか(いまのところ)書けない作家は、単著を出すのに時間がかかるのでなおさらだ(やっぱり自分の本を持っているか否かは大きい)。経歴というのはまあ、プロデュース的にはきっと大事なことで、そのとき受賞歴というのは多少は役に立つ。少なくとも存在を認知されるきっかけにはなる。本当であれば、「ここここの作品はすごい!」という感じでご依頼貰えればいちばんよいのだけど、そこは私の力不足。
 三つめは腕試しである。単純に比較はできないが、選考に関わる人数で考えると、文芸誌の掲載の方が少ない。下手すると、担当の編集の方の判断で決まることもある。その点、公募は、下読みや編集が複数名で確認し、かつ最後は選考委員に読まれるので、何重ものハードルになっている。それが作品の質に直接かかわるとは思わないけど(ベクトルの違う話だ)、なんというか、その中でサバイブしていくのは興奮しませんか。私は小説講座的なものを読んだり受けたりしたことは一度もないので、自分の腕一本でドスドスできるところは性に合ってるし、けっこう愉快だ。
 それに、落ちたとしても(私はけっこう落ちている)、例えば前回は一次、今回は二次通ったなとなったら、ここがよかったのかな、とか、修正ポイントは何となく理解できる。あと、公募だったら、気兼ねしないで「とりあえず読めや!」と送れるのも、気の小さい自分にとっては合っている部分でもある。
 そんな感じなので、そろそろ公募ガイドさんからエッセイの依頼が来てもいいと思う。