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 一人暮らしをしていた大学生の頃、日本酒の一升瓶を買ったことがある。銘柄はよく覚えていないが、スーパーに売っていた、一番安いものを選んだ。そのとき僕は、この一升瓶を、一カ月かけて飲み干すことを決めていた。理由は単純で、お酒に強くなりたいと思ったからだ。僕はとことんお酒が弱かった。
 大学生活で、僕はただの一人も友達ができなかった。ただの一人もだ。講義、バイト、講義、バイトの繰り返しで、代返すら頼まれることがなかった。何が原因だったか、と聞かれても、人当たりと運が悪かったとしか答えようがない。実家に帰ると、必ず聞かれる「大学生活は楽しいか」という問いに、いかに嘘をにじませないように楽しさを短く伝えるかについて、僕は毎回腐心していた。
 しかし、三年になったとき、僕は一念発起してフットサルサークルに入ることを決めた。そこには、これから来る就職活動であまりにも不利になるだろうという思いもあった。フットサルに決めたのは、中学時代にサッカーをしていたことと、同じ学科の人たちが誰も入っていなかったということからだった。
 フットサルサークルの人たちは、悪い人たちではなかった。だが、多くの大学のフットサルサークルがそうであるように、少しノリが軽く、飲み会が多かった。さすがに一気飲みなどを強要される場面はなかったが、僕が早々にウーロン茶などを頼むと、軽い冗談の中に白々とした雰囲気を感じとることができた。
 飲み始めたのは、長い夏休みも折り返しに入ったころだった。一升瓶はだいたい1.8リットルだから、一日コップ一杯に満たない量で、飲み干せる計算だった。毎日繰り返し飲めば、少しは慣れることができるのではないか、僕の考えはシンプルだった。飲み方も知らなかったので、ネットで調べた。熱燗、冷酒、冷や、ジュース割。
「飲めないってどんな感じ?」
 時々飲み会で聞かれると、僕は焦ってどんな風に答えていいかわからなくなった。気持ちは悪くなる。だけど吐こうとは思わない。でも嘔吐の予感はある。まずいとは思わない。けれどおいしさがわからない。それが上手く答えられず、僕は黙る。黙って首をかしげる。相手はははっと笑い、反対側の人と喋り始める。
 一日目はそのまま冷やで飲んでみたのだが、一口飲んだだけで、早速気分が悪くなった。吐く予感はあったが我慢した。二日目は、ネットにあった、リンゴジュースで割ってみるという方法を試してみると、意外にするすると飲めた。しかし、翌日、あまりの頭の痛さに嫌になってしまった。それでも僕は、試行錯誤しながら、毎日続けた。
 その間に、フットサルサークルは、仲間内で合宿に行ったらしい。LINEを交換した一人が教えてくれた。僕は黙々と一人で、日本酒を飲み続けた。
 昔からこうだったか、と言われると、そうでもない。高校までは友人もいた。未だに連絡をとり、地元に帰ることがあれば一緒に遊びに行く。大学に入ってからも、サークルの勧誘には顔を出したし、学科のコンパにも最初の頃は欠かさず出席した。連絡先も交換した。しかし、連絡を取り合ったり、話しかけたりしてくれたのは初めのうちで、徐々に彼らとは距離ができた。講義の時に一番前の席に座ることが増えた。学食で、なるべく知った顔のない空いた席を探すようになった。僕には理由がよくわからなかった。だから僕は、お酒に理由を求めた。
 二週間ほど過ぎたところで、僕はついに瓶を見るだけで気分が悪くなってしまった。何とかコップに薄く注いでみたのだが、口をつけることすらできなくなってしまった。とりあえず一日休もうと思い、それが二日になり、三日になり、結局一升瓶は、キッチンの調味料と一緒に、棚の奥に隠されたまま出てくることがなくなった。
 一か月が経った日、バイトから帰ってくると、僕は久しぶりに瓶をとりだした。ラベルを見ると、喉の奥にお酒の味が蘇ってきた。飲みたい、とはどうしても思えなかった。蓋を開け、逆さまにして、シンクに流した。どくどくと一定のリズムで流れる液体からは、アルコールの言いようもないにおいが漂った。蛇口をひねり、しばらく水で流したのだけれど、その日はどこにいっても、部屋の中からそれが消えることはなかった。
 その夜、僕は夢を見た。
 僕は夢の中で目覚めた。アパートのドアを開けると、外には海が広がっていた。僕は裸になり、その海を泳ぎ始めた。海の味はお酒の味だった。あの日本酒の味ではなかった。でも、お酒だった。僕はときどき、その海を舐めながら泳いだ。不思議とその味は不快ではなかった。太陽が照っていて、空には鳥が何羽か飛んでいて、のどかだった。どこまでも進んでいける気がした。
 しかし、急に前に進めなくなった。何か、見えない壁が、行く手を塞いでいるのだ。どこかに壁の終わりがないものかとしばらく伝いながら泳いでいたのだが、終わりはなかった。一周泳いで元の場所に戻り、僕はここが瓶の中だということに気が付いた。ここは瓶の中だった。目が覚めた。僕はアパートにいた。ひとりだった。部屋にはまだ、アルコールのにおいが、微かに、ただよっていた。
 それから僕は、フットサルサークルをやめた。結局、講義とバイトのルーティンを繰り返して、大学を卒業することになった。でも、友達はひとりできた。フットサルサークルでLINEを交換した人だった。同じ趣味があることを知ったからだ。その友人とはいまだに連絡をとり、時々一緒に遊びに行く。
 社会人になって一年目の冬に、新潟に出張に行くことになった。仕事の後で、地元だという上司は、居酒屋に誘ってくれた。
 上司は日本酒を頼んだ。彼は、メニューを僕に渡しながら言った。
「君はあんまり飲めないんだったな」
 遠慮はしなくていいよと付け加え、お手拭きで顔を拭いた。ありがとうございます、と僕は答えた。ソフトドリンクの項目を眺めながら、でも、僕は別のことを考えて、そしてそれを口にした。
「あの」喉の奥がからからとしていた。「日本酒のおすすめって、ありますか」
 上司は一瞬、きょとんとしたが、おおそうか、と、笑顔になった。それから、地元の蔵元にこんな酒があってね、と楽しそうに話をした。君だったら、と勧めてくれた日本酒は、あの海の味がした。そこに瓶はなかった。