怪獣

 マスクは予想しなかった。
 そのマスクは私が買ったものではない。夫はそもそも生活用品を買わない。だから知樹が自分で用意したんだろう。恐竜だか怪獣だかの開いた口が大きくプリントされている。牙が見えるぐらいまで大きな口。それをつけると要するに「ガオー」というような感じになる。質の悪いジョークグッズのようだ。子供か、とそれを見た光莉は頭をはたいた。
 もともと知樹はこだわりのある子供ではなかった。例えば服でもおもちゃでも、「これいいんじゃない?」とでも言おうものなら「じゃあそれ」と、ふんわりと返事をして、楽しそうにおもちゃで遊び、新しい服は着替えのローテーションに入った。子育てとしては楽だったが、心配の種でもあった。それが、高学年に足を引っ掛けてこの方、「ヤダし」「だせー」「無理」の3パターンで返すようになった。着る服をおこずかいで買ったり、ワックスで髪をかためたり、私が買ってきたものは靴下だって履かない。ほっとした反面、やはりその変化は不安のひとつにはなった。夫は気楽なもので、「オレもそうだったよ」と言い、担任も個人面談では「成長過程のひとつですから」と賢しらでもって答えた。
 だから、卒業式も内心ハラハラしていた。小学校では、「公平の観点」から式での袴の着用が禁止になり、原則中学の制服を着ると決まると、なぜか家でハンガーストライキをしたのだ。学校から帰ると自分の部屋に閉じこもり、棚からくすねたお菓子で過ごした。「バカな弟だね」と光莉は笑い、「そのうち飽きるよお母さん」と、私をなぐさめた。確かに、一週間ほど経ったある日、家に戻ると、何ごともなかったように澄ました顔で食卓についた。これ以上こじれるのもゴメンだったので、私も何も言わず、生活は元に戻った。
 中学の制服を試着した日も、届いた日も、式の前日も、「これ着るのよね」と私は何度か確かめ、そのたびに知樹は面倒くさそうな顔で、濁点こみの「ああ」という返事を寄越した。すっかり信じたわけではなかったが、それでも私は安心した。
 それが、マスクだ。
「それ着けてくの?」
 否定から入ってはいけません、というスクールカウンセラーのアドバイスに従い、私はことさら表情を柔らかくしながら訊ねた。まあね、と知樹は答え、ブレザーのネクタイを苦労しながらつけた。私は鏡を見ながら、彼のネクタイをほどき、もう一度結びながら「着けてくのね」と訊いた。「うるせえな」と知樹はしかめながら答えた。もぞもぞと、怪獣の牙が、彼の口にあわせて動く。ため息を我慢し、ぐっとネクタイを締めると、知樹はうげえと大げさな声を立てた。
 卒業式はコロナ対策で、保護者は一名しか入れなかった。知樹は父親を選び、私はZOOMでの配信を別の教室で眺めることになった。それとなく廊下を歩いている6年生を見てみたが、みな白い不織布か、せいぜい黒や灰色といったものがほとんどで、イラストはおろか、柄ものをつけている子供もいなかった。大きな牙の口で話している知樹を思い、まあでも今日で卒業だと、私は自分を説得した。
 ふと、自分がハカマダくんを探していることに気がついた。多分「袴田」と書くのだろうけど、まじまじと漢字を観察したことはない。いわゆる「札つき」で、保護者の間で種々のうわさが流れた。授業中に教室から飛び出すとか、首を絞められた子がいるとか、母親もやばいとか、いろんな話が流れてくる。口うるさい飯田さんのところは、「絶対に同じクラスにしないでほしい」とわざわざ担任にお願いしているらしい。最後に同じ学年になったので私も嫌だったが、〈モンペ〉にはなりたくなかったので、とりあえず自分の子供に何かないかだけ気にしている。
 式が始まった。体育館の上部にあるキャットウォークにカメラは設置されていて、俯瞰を眺める形で進んでいった。画質はあまりよくなかったが、自分の息子はすぐに発見することができた。だからといって、あのマスクでよかったとはならないけれど。
 証書の授与が終わると、校長やPTA会長の話が続いた。どうやら以前よりも簡素になったらしい。話も短く、テキパキと式は進行していく。袴田くんは知樹の隣にいた。意外にも、背すじを伸ばしてじっと前を見ている。「楽しかった全校遠足」呼びかけの言葉も、立ち上がるタイミングも遅れることなくこなしている。「学校をきれいにしてくれた用務員さん」
 クラスが変わってから、知樹の口からハカマダくんの名前が出るようになった。そもそも知樹は学校の話などしない。それでもときどきは、光莉と他愛もない話をしているところを見かける。どうやらオンラインゲーム上で、ハカマダくんとは仲良くやっているらしい。そっちの管理は夫に任せている。私とはけんかになってしまうからだ。歌が始まった。ゆずのなんとかとかいう曲だ。子供たちの世代ではないから、先生たちの趣味なのだろうか。仰げば尊しとか、そういうのは今は歌わないのかもしれない。「わたしたちは、巣立ちます」
 私は、知樹が変わったのは、ハカマダくんの影響が大きいと思っている。一度家に来たことがあり、ちょっと態度が悪かったので注意したところ、「ははっ」と笑ったのだ。ははっ。大人を小馬鹿にしたような感じではない。心底、可笑しいという顔だった。そして、その後すぐに殊勝らしく「すみません」と謝ってみせたので、私の怒りは行き場を失った。腹に溜まった私のそれは、今も十二指腸あたりにくすぶっている。
 式が終わると、集合写真の時間になった。1組から順番に呼ばれ、保護者と一緒にクラスごとに撮影する。私は夫と合流して、ぼんやりと出番を待った。知樹はハカマダくんと笑いながらしゃべっている。ハカマダくんが知樹のコサージュを頭に着け、証書の筒で、知樹が彼の背中を叩く。「仲が良いんだな」夫がぼそっと呟く。「そうね」と私は短く返す。知樹は受験をさせたので、ハカマダくんとはこれっきり会うことはないかもしれない。そんなことを思うと、さすがに感慨深い気持ちになった。
 順番が来たことが知らされ、まずは保護者が舞台に上がった。子供たちはその後、舞台の前に組まれたひな壇に背の順で乗っかっていく。カメラマンが、声を出さないようにねと言って、マスクを外すように指示をする。
「お前たちは外さなくていいのか」
 担任が急にそう呼びかけた。何だと思う間もなく、知樹とハカマダくんが「はい!」と大きな返事をした。ぎょっとして見ると、知樹はあのマスクをしたままだ。そして、ハカマダくんも、知樹と同じマスクにいつのまにかつけかえていた。大きな口の、大きな牙の、怪獣だか恐竜だかの。
「だけどなあ、写真はずっと残るぞお」
 最後の日にまで小言を言いたくないのだろう、笑顔のままで、担任はそう言った。
「でも、強制じゃないですよね?」ハカマダくんが声をあげた。「ぼくたち、コロナがこわいんで、マスクつけたままがいいです」
 ぱらぱらと、小さな笑い声が漏れた。それが合図だったかのように、「よろしいですか」とカメラマンが訊き、担任は肩をすくめた。会場の少し緊張した空気がほぐれ、カメラマンは、「じゃあ撮りますよー」と暢気に声をかけた。「怪獣の君たちも、大きな口で笑顔になってねー」今度ははっきりと、さざ波のように笑い声が広がる。何人かの子供たちがふたりの様子をにやにや見て、見守る大人たちも、やれやれと言うように顔をほころばせている。ハカマダくんは、真後ろにいる知樹と目を合わせ、マスク越しに表情を歪ませた。ははっ。その顔を見たとき、私は彼らの未来が見えた。何年か後の同窓会で、二人は再会し、スマホに保存したその写真を見合って、懐かしいよなとか青春だったなとかなんとか言って、笑い合うのだ。無邪気に。無邪気な風を装って。二人は、二人がつくった物語を、何気なく、さも大事であるかのように、語り合う。そして二人は、次の同窓会まで会うことはない。お互いの物語をそれぞれ、内臓の奥の方にしまいながら。
 それからの私の行動は素早かった。失礼、と言うと、舞台を降り、知樹の前に割り込むと、無言で彼のマスクを剥がした。私譲りの、薄い唇と、平べったい鼻が露になる。誰も声を上げない。音という音が、どこかに吸いこまれてしまったかのようにしんとなる。夫の横に戻り、何か言いたげな彼の顔を一切見ないで前を向く。カメラのレンズだけを見る。
「では、笑って」
 カメラマンは、最後の職業的責任でもって絞り出された声を出す。シャッターは全部で七回切られた。三回目のときに、ハカマダくんを見ると、彼はマスクを外すところだった。私はレンズに視線を戻し、唇の端を上げる。ははっ。ハカマダくんの顔を見たのは、それが最後だ。