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さかさ近況㉙


あわしらとったよ

 光栄なことに、第6回阿波しらさぎ文学賞で大賞を頂戴した。
 あんまり自信のない作品で、佐々木会長からお電話いただいたときは、やったー、というより、「え、まじで」みたいな気持ちが強くて、相手も困っただろう。自信のなさは、バレエというかなり自分から遠い題材を扱ったことと、「渦潮」というど定番をテーマにしたことから。自分の中で上手にコントロールできた作品ではないと思ってはいるのだが、短い作品だとそれがかっちり嵌ってうまく読まれることもあるのだろう。今月末に掲載されるそうなので、お楽しみに、といいつつドキドキしてる。
 発表記事にも反応いただいたが、本名などは公開しないでもらっている。これは第一に仕事に差し障りがあるからであるが、まあ、いらんやろ、という気持ちもある。新聞社主催の文学賞は慣例*1として色々な個人情報を掲載することを己の責務*2として考えている節があるが、あわしらは、その点、本名と筆名の選択ができるということに変わったのは画期的だった(そう、この時代に)。
 思ったほど簡単な話ではなかったし、いろいろ言いたいことはあるが(「非公表」ってわざわざ書かんでええやろ、それ事前に見せてもらった記事の中にはなかったやん、とか)、対応してくださった方々は、いろいろなしがらみの中で、誠実に対応してくださり、頭が下がる思いです。
 で、大事なことなので太字で書くが、こういう対応がよかった、続けていこうと思ってもらうためには、応募者が増えることがいちばんインパクトがある。残念ながらあわしらの応募者数は去年、今年と減っている。実際のところ、大手以外の文学賞は近年減少傾向にあるというのが持論なのだが(これはエビデンスをつけてそのうち記事にします)、そうだとしても、これで来年も減っちゃったりすると、「なんだ関係ねーじゃねーかよ」と思われてしまうので、はい、そこの今年出さなかったあなた、来年は必ず出しましょう。お友達も五人ぐらい誘ってください。
 それは冗談としても、徳島文学協会さんや徳島新聞社さんは、こういった地方文学賞が「賞あげました、新聞に載せました、終わり!」という中で、雑誌を発行したり、いろいろな文学イベントを開催したり、去年からは徳間の読楽と組んだりと、精力的に活動されているところは本当に魅力的だと思う。それから、大滝さんや佐川さんといった、正直、あまり地方文学賞らしからぬ方々(!)を初期の受賞者に迎え、その後活躍されているところを見ると、たいへん裾野が広い賞であるとも思う。私がこれから助力できることは、あらゆる媒体で受賞者であることをひけらかすことだと思うので、まずはノーベル賞がとれるようにがんばりたい。

最近読んだもの、見たもの

『夢分けの船』津原泰水(河出書房新社)

 プルーフをいただいのでさっそく読んだ。
 著者自身が「青春を描くには現代文学の青春時代(=明治)の文体が合っているのではないか、それは21世紀の青春とも化学反応を起こしてくれるのではないか、というのがそもそもの執筆の動機」と書いているように、全編、明治時代の作品を読んでいるかのような、言うなれば、「擬・擬古文」体で描かれている。
 四国から、音楽を志して上京してくる修文という青年と、彼の住む部屋に「出る」という花音という幽霊をめぐる青春譚という感じなのだが、最後まで読んで、言い方が適切かわからないが、ラブコメのラノベを読んでいる気分になった。修文はどっちかというと「やれやれ」系だし、それで女性に結構モテる感じなので、そんな印象を受けるのかもしれない。あらすじからして、「俺、修文。音楽を目指して東京に来たけど、初日にいきなりヘンな男にからまれるし、借りたアパートに女の子の幽霊が出るっていうし、勝手に部屋に上がりこむ女はいるし、いったいこれからどうなっちゃうの!?」という風である。にもかかわらず、この「明治の文体」というのは、極端に合っていた。一種の発明だなと思った。
 物語に出てくる若者たちの悩み方は、たぶん平易な現代の文体で書かれると、「けっ」という気分になるだろう。実家のパイプもあるし、貧乏貧乏ゆうてそこまででもない感じの彼らのウジウジ具合は、現代の小説の取り上げ方としてはいささか古い印象を受ける。だが、そこに、夏目漱石みたいな言葉で描かれると、真に迫る描写となり、おおそうだよなと、昔を懐かしみながら彼らの短い輝きを追いかける自分がいることに気がつく。うまい。うますぎるのだ。私は漱石は好きなのだが、彼の作品に出てくる男の主人公はだいたいイヤなやつだし、漱石自身もそこを意識して書いているように思う。そしてそこがかなり魅力的だ。たぶん、下手な作家がやったら空中分解してオシマイになってしまう物語だろう。
 だから、この話は水村美苗の『続・明暗』などとは趣向が違う(ただしこの作品はハイパー名作なので読もう)。あくまで現代劇であり、その魅力を再発見させてくれるような物語だ。だからこそ、この物語をひとつ踏み台として、次の作品を読みたかった。

『紙魚の手帖』Vol.12(東京創元社)

 我を負かした作品が載っているので(!)「どれどれどんなもんじゃ…」と読んでみたが、うーん、おもしろかった。ごめんなさい。
「竜と沈黙する銀河」は、私が勝手に想像していたようなハイ・ファンタジーの物語ではなく、歴史改変的百合スペクタクルだった。ご本人もおっしゃっていたが、『ハーモニー』を彷彿とさせる、世界を股にかけるECITSの査察官バディの物語(CITESからECTISへ、という文がカッコイイ)。なんというか、自作とはまったく方向性が違うので比較しようがない部分もあるが、「竜」という部分についてはやはりすごいな、と感じる。例えば「気嚢」の呼吸のくだりは、自分だったら描写に入れられないな、と思う。鳥類と同じということは、恐竜との関係かなとか、きっと作中に書かれないバックグラウンドが作者の中にありそうなことを、この短い描写の中にも感じさせる。いろいろな書き方のスタイルがあると思うが、こだわりをもつ、というのは作家性の中でも大事なことのひとつなのだろう。
 ひとつだけ気になったのが、ザーフィラの故郷が「東アフリカの小国」だというところ。作者本人も、竜のレースはアラビアの駱駝レースをモチーフにしているということだが、確かに登場人物の名前はアラビア系だ。東アフリカ圏でアラビア、小国、紛争の絶えない、というとまっさきにソマリアが浮かぶ(東アフリカをEACとすると違うし、ジブチなども含めればまた変わってくるが。まあ、パラレルなので野暮といえば野暮なのだが…)。ソマリアはイスラム圏だ。そうすると、この物語での女性の立ち位置や、宗教観、「肉」に対する考えなど、ちょっとややこしそうな文化背景を考えてしまう。さすがにこの長さでそれは収まりきらないだろうから、ぜひ連作などの形で、そういった背景的な部分も読みたいと思った。
 すべて読んだわけではないが、面白かったのは笹原千波「手のなかに花なんて」。創元受賞作と同じく、情報人格をめぐる話だが、少女の視点から語られる自立の物語が心地よかった。笹原さんはとにかく描写が丁寧だ。「情報人格」という設定自体は新奇のものではないかもしれないが、細かな部分の描写が物語の骨組みをしっかりしたものにしていると思う。読んでいてストレスを感じない作品をつくれるのは本当に才能だと思うし、長く続けていける秘訣だろう。
 アイ・ジアン「英語をください」もかなりよかった。言語を単語単位で切り売りする近未来の話で、物語は「コーヒー」という単語を売ってコーヒーを買う場面から始まるのがうまい。このアイデアはかなりおもしろいとともに、どうしても作者の背景は気になってしまう。『折りたたみ北京』に収録されていた馬伯庸の「沈黙都市」を思い出す。これは政府が言語を規制する話で、中国の情勢を漏れ聞くと、なかなか際どい印象を受けた。

『羅小黒戦記』

 プライムのが終わると聞いたので観た。きびきび動いて、登場人物も魅力的、いろんな要素が盛りだくさん、お話も短くまとまってる、とまあ、おもしろさのお手本みたいな映画だった。ムゲンは人気だろうなと思ったら人気だった。かっこいいよね…。第2期もあるという話で楽しみ。

完璧な陰影のペニー硬貨

 今年もかぐやSFに応募できた。
 前回は審査員として、みなさまの作品を選ぶというひょえーという立場だったので、今回は出せてよかった。「最高やん…」→「4000字短い…」→「書き直すか…」→「4000字短い」→「書き直すか…」→「つまらん」→「やっぱり最初のにしよう」という、別れた恋人が忘れられない感じの変遷を辿ってしまった作品になってしまった。応募数が減っているのが不思議なのだが、スポーツのお題が難しかったのかもしれないし、そもそも文学系公募が減っている感じもする。受賞後のロードマップがこんなにはっきりしていて、しかも短いコンテストなんて早々ないので、公募勢は送らない手はないと思うのだが…。
 ひとつ残念なのが、第1回からいらした橋本輝幸さんが今回は選考委員にいらっしゃらないこと。選考委員が固定化されないことは、バリエーション豊かな作品を選ぶうえで重要だと思うのでぜんぜんその点はよいのだが、個人的には読んでいただきたかった(もちろんご本人のご事情もあるだろう)。
 私はまじで不遜な人間なので、小説に関して師は持たないのだけれど、尊敬する方はいる。橋本さんはその一人で、お仕事を一緒にさせてもらったり、お話を聞いていく中で、非常に要点よく言葉を選んで伝えられる方だなという印象を持った。豊富な読書量がその裏打ちとしてあり、私も勉強しなきゃなあと思う。
 Rikka Zineの募集があったとき、「これはおもろいやろ」という作品を送ったところ、だめだよー、というお返事と共に、丁寧なコメントを頂いた。丁寧ではあるが、だらだら長いわけでもなくて、スパスパと私の他の作品と比べた上での課題と改善を述べて頂いた。私は学生時代から、指導されるとはあはあ頷きながら「けっ」という気持ちになる真面目系不良だったのだが、これはけっこう自分の中でストンと落ちた印象があった。創元の最終までいけたり、あわしらをとれたり、文芸誌に載せられるような作品が書けるようになったのは、このコメントが効いていたと思う。
 どんなものだったかは詳らかにはしないが、改めて考えてみると、ピクサーの元社長Ed Catmullの言っていた「完璧な陰影のペニー硬貨(beautifully shaded penny)」の有名な話を思い出す。これは、マネジメントのリソース管理の話で、モンスターズインクの製作の際に、社員にそのシーンの背景について詳しく伝えなかったため、CDケースが崩れるたった3秒間の場面にもかかわらず、ほぼ映らないジャケットだけでなく、ケースのシェーダーのプログラミングまで行ったというもの。机の端っこに置かれた1セント硬貨のシェードまでプログラミングする、というわけだ。日本ではどうも、「芸術はどこまで細部にこだわるか」みたいな話に集約されがちだが、Catmullは、マネジメント側が「制限」をどのように設けるか、それが芸術性を押し高めることにどのように役立っているかという流れになっている(”Creativity,Inc" 邦訳は『ピクサー流 想像するちから』(ダイヤモンド社))。
 小説はひとりで書くので、リソース配分も自身が行うことになるが、この「制限」をどこで設けるかはかなり大事だ。大きく2つあると思っていて、ひとつは造形の問題。例えば未来の物語を書くとして、主人公が電話で話すシーンを書くとする。では、そのときの端末を、どこまで描くか、というところ。スマホ型なのかチップなのか、それともオリジナルな何かなのか。詳細な描写が物語にリアリティを与えることもあれば、そこはすっ飛ばす読者もいるかもしれない。どこに力を注ぐかはけっこう難問だ。
 もうひとつは物語自身の問題。必ずしもなにかを伝えるために(少なくともそれを予期しながら)書く必要はないと思うが、「フック」のない小説はよほどの作家でなければ書くことが難しい。「フック」の語義の範囲は広くて、いわゆる現代的諸問題でも良いし、叙述的仕掛けでもいいし、とにかく「お」と読み留めてもらうための何かだ。なんとなく読んでいた読者に「お」と思ってもらうために、どこに仕掛けをほどこすか。これは「制限」を設けないと、あれもこれもになり印象が漠然となる。そして、どの部分に「制限」を設けるか技量が問われる。
 私は小説はスポーツと一緒で、数をこなさなければ(ここでいうこなすは、「了」の文字をたくさんつけるということ)あんまりうまくならないと思っている。ところが現実世界はかなり有限で、仕事もあるし育児もあるし、永遠に調べ物をしたりうんうん展開に唸っているわけにもいかない。例を挙げれば、「ベルを鳴らして」は、タイプライターについてはかなり時間をかけて調べたし、当時の在日中国人の論文なんかもあたっている。だが、戦中の日本人の生活様式と言ったところまでは(元々の知識もあるが)、そこまで時間をかけていない。この作品を5日で書けたことは、そういった割り切りもあったからだと思う。
 小説のよいところは、他人の頭を使ってエミュレートできるので、「端末で話した」とだけ書いても物語が成立するところだ(漫画や映画だとモデリングが必要になりそうはいかない)。よく「読者を信じる」みたいな話は、そういう部分もあるだろうし、実際難しいのはそこの塩梅のところなのだけど…。
 コメントをもらってすぐにこんな考えが浮かんだわけではなくて、いろいろ書いていくうちにストンと落ちていった感じだ。もちろん、これはあくまで私のケースだ。世の中にはいろいろな書き手がおり、いろいろな作り方がある。でも、お会いしたわけでもなく、作品だけで的確なコメントを出せるなんて、やっぱりすごいなあと思って、僭越ながらお名前を出したわけである。公募に出す出さないはともかく、いろんな人に読んでもらうのは、みなさんよいと思いますよ。

 書いていたら思ったより長くなってしまった。「私はインターネットで創作論をぶちかましました」の看板を下げて廊下に立ってます…。


*1
https://note.com/saksakikaoru/n/nb37a0971037e

*2
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ab4096bb4150becd5244289a7be35bb8c6e73044