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さかさ近況㉒


最近読んだもの、見たもの

「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」ドストエフスキー

 私は常々、ドストエフスキーというのはエンタメ作家であると思っている。とにかく字は小さいし1ページは蟻みたいに真っ黒で、それだけで読む気が削がれる感じがあるのだが、

全編にわたってこんな感じ

ふう、と気合入れながら読むと、これがすらすら読める。面白いのだ。登場人物はだいたいいつも興奮してるし突拍子もないし、すぐ死んじゃったり狂ったりするんだけど、とにかく面白い。よく考えてみれば、読者を楽しませる気がなければ、ルージンなんて成金を出してついでに言い負かされる場面なんてつくらんでしょうし、大審問官でアリョーシャがイワンに接吻するなんて展開にしないんではなかろうか、と思う。
「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」は未完ながら、ドストエフスキーの「百合」小説としていっとき話題になった、らしい。ネートチカという少女の人生譚なのだが、百合の話は、第二部のカーチャとの顛末である。米川正夫は解題で、この作品の価値を有しているのは第一部だと断じているが、いやいや、第二部のカーチャとの物語はかなりよかった。
 ネートチカは薄幸で、暮らす場所も転々としているのだが、第二部でお世話になる侯爵の邸宅で、カーチャと出会う。貴族らしい高慢な態度でカーチャは初めは接するのだが、そこから徐々に仲良くなる過程がけっこう丁寧に描かれている。とにかく独り言みたいにべらべらしゃべりたおすのだけど、その子供っぽい部分が、子供っぽくっていい。ドストエフスキーの子供は、すごく子供らしく書けているのはなぜなんだろう。「あんた、靴の紐が解けてるわよ」と、唐突にカーチャがネートチカの側に寄って結んであげる場面はとってもいいですね。

『僕は死なない子育てをする: 発達障害と家族の物語』遠藤光太(創元社)

 発達障害当事者の父親が、子供が産まれて子育てをしていく中での奮闘を描いたエッセイのようなもの。
 と書くと軽い感じだが、なかなか内容は重い。発達障害云々の話を抜きにしても、子育ての困難さ、夫婦関係の難しさは、非常に身に染みるものがある。やっぱりそうだよなあと思うと、そもそも社会構造として、今の家族形態があまりにも現実に適合してなさすぎると感じてしまう。自分もなかなか苦労の多い毎日を送っているが、こうしてなんとか生きているのはたまさかの僥倖だなと思ってしまう。自分だって、今暮らしている危ういバランスがひとつでも崩れると、立ち行かなくなる恐れは常にもっている。こういう本がいま、数多く出始めていることは、よいことではあろうと思う。

『内なる町から来た話』ショーン・タン/岸本佐知子訳(河出書房新社)

 とにかくネコチャンの話がよかった。

 実は、あんまりショーン・タンは合わないな、と思う物語が続いていて、それだけに「タグボート」の話は輝いていた。どうも自分は、「せみ」のような、社会の暗い部分を書く物語がちょっと苦手らしい。その後の、「馬」の物語もよかった。読むべし。

「うなぎ」大木芙沙子(文學界2023年5月号)

 この人なら、という作家の物語を読むのはやっぱりいい。突拍子もないうなぎがへそから出てくる話から始まったとしても、きっとどこか遠い所へちゃんと着地させてくれる安心感がある。
 本作も、いい話っぽい表層の下に、登場人物たちがかけ違えているいろいろなものがある。ともすると間延びした曲になりそうなところを、ひとつドラマをつくる緩急がいつもながらうまい。母の死のテーマは私の作品の同工異曲でもあるが、地続きになっている感じもしていい。ちなみに坂崎も、うなぎをテーマにした掌編を書いている、と宣伝しておく。

骨|さかさきかおる|note

「メランコリア」山尾悠子

 いまだに山尾先生と名前が並んでいるのが信じられないが、幻想かくあるべし、とぴしゃりと扉を閉められたような短編であった。
 筋を語るのはちょっと難しい。「寮」と呼ばれる場所に住む奥さんのお雛様を見た「わたし」の恍惚があり、そこから夢のような語りの物語が広がっていく。生者と死者が入り混じっている感覚があり、特にラストの妹の語りは圧巻で、彼女の語る「世界の終わり」を想像するに、どうも「わたし」の住んでいた場所はここではないどこかのようだ。
 とにかく現前するイメージがことごとく美しい。もちろん「雛」とそのきらびやかな段々がキーになっているのだが、いちいち文の言葉遣いが、「お前にこれが書けるか?」と問われているようでおそれおののく。精進したい。

「奇病庭園(抄)」川野芽生

 川野さんの作品を初めて読んだが面白かった。「書痴」「写字生」といった造語的な手触りもいいけれど、「いつしか昼の星の」「世捨て人」といった日常の言葉が見せる、いつもと違う輝きもいい。子供のころ、少し背伸びをして読んだ物語に出てくる言葉が、字面としてはわかるのだけれど、意味としてはどうも腹の中に落ちず、それでもその語のもつであろう響きの深さがずっと心に残る、そんな感じのする短編だった。
 (抄)の意味は最後まで読むとわかるが、実は山尾先生のも体裁上は「抄出」となっており、そこはかとないシンクロニシティを感じた。これは文學界のポッドキャストでも似たようなことを言っていた。

「ハンチバック」市川沙央

 界隈を賑わしている作品であり、私も読んで衝撃を受けた。
 この物語は3つのレイヤーにわかれているなと感じた。
 1つ目が、文字通り「ハンチバック」という小説自体。釈華というミオパチーの女性とその周りの物語。2つ目のレイヤーがラスト部の「*」以降に描かれる紗花という風俗嬢がその1つ目のレイヤーである「釈華」を描いているというもの。3つ目がもっとメタ的で、この作品自体を書いた「市川沙央」という先天性ミオパチー当事者のレイヤー。
 これを意識したとき、この作家はとても底意地が悪いのではないかと思った。これは悪い意味ではなくて、この文芸空間という中で、そのような意識でもって書く小説家が何人存在できるのだろう、ということだ。1つ目のレイヤーである釈華がぶつけてくる障害者に対する社会構造の諸問題は読んでいていたたまれなくなる。特に、読書という行為すら「マチズム」として指摘するその姿勢、ただの「お気持ち」ではなく、理論武装をして社会と対峙している姿に、真っ向から反論できる人はたぶんいないだろう。
 そのため、2つ目のレイヤー、紗花の存在を付け足したのは、私は成功だと思う。この話を入れたわけの1つは、どう考えても、「釈華」の話は創作かもしれない、と読者に思わせるためである。大体、ブラックカードもちの親のもとに産まれて、その遺産で暮らしながら1億の小切手をぽんと出せるという設定はちょっと戯画的で、現実味が薄い(もちろんそういう人間も現実にいるだろうが、あくまで小説の設定として)。個人的にはそういう設定があるからこそ、「創作」の可能性はシームレスに受け入れられた。だが、その事実はどっちでもいい。恐らくここで重要になるのは、「創作」だという可能性が出た時点で、ちょっとほっとした部分が読み手にあらわれなかったか、ということだ。そこに読者の欺瞞を炙り出す、そんな意図はないのだろうか。
 そして、著者自身が当事者であるということ。これは勇気のいることだ。もちろん登場人物と作者は別であるが、この場合、果たして我々にそれを完全に区別することができるのか。というか、そこを切り離して考えることは不自然ではないか。今目の前にいる人間を知りながらら君は空虚なテキスト論でお茶を濁すことができるのか…そんなことを突きつけられている気がした。釈華の物語とそれを書く紗花、そしてそのふたつを内包する市川沙央。この現実と虚構の重層性こそが本作の最大の魅力なのではないか。そして、こんな言でしか書けない愚かなマジョリティを静かに告発するような。
 あとこれは全く関係ないんですけど、この話の下敷きは蜘蛛の糸なんでしょうか。釈華はもちろんお釈迦様、担はカンダタのことなのか、と感じたが、これは深読みのしすぎ。

「あるもの」鳥山まこと

 今回の三田文学新人賞受賞作。こちらは文學界とは打って変わって、正攻法の物語だった。町民支援センターに勤める「私」が、少し痴呆の進む有村さんの頼みを聞いて、思い出の場所をめぐる、という筋立て。
 こう書くとちょっといい話のようにもみえるが、有村さんが行って欲しいという場所は存在せず、そのたびに「私」は肩透かしをくらう。私がいいなと思ったのは、その存在しない「場所」の描写が魅力的で、質感をもっているところだった。最終的に「私」は、有村さんに嘘をつくのだが、その嘘から本当らしきものへと話がつながっていく様子が見事であり、それはこの有村さんが語る物語が魅力的だからだろう。ともすればふわふわとした話になりそうなところを留めているのは、この有村さんの話と、山間の風景の描写だろう。堅実な書き手であると思う。
 ただ、これは作品の瑕疵ではなく、文學界のものと立て続けに読んだために感じたのだが、「あるもの」はどことなくこじんまりとした印象を受ける。「三田文學」っぽい。例えば前年度の松井十四季さんの「1000年後の大和人」はその「ぽさ」がなく新鮮だった。これは結局、いいわるいの話というわけでなく、すみ分けの話だろうと私は思っている。世の中の新人賞が「ハンチバック」ばかりになってしまうと、それはそれでちょっとバランスが悪いし、三田文學のような佳品を大切にする新人賞がやっぱりあってよいと思う。ここで終わらせず、先につなげてほしいとも思うが…

『僕の心のヤバイやつ』

 アニメを楽しみに見ている。おおむね満足なのだが、ところどころ解釈違いが発生している。たとえば、第1話の(原作だとKarte.6)自転車を川にぶっこむ場面、山田は市川の顔を見て、一瞬何かに気づいた表情になるが、あれは余計ではないか。また、第3話の(原作だとKarte.14)保健室で鼻血を出した山田が泣く場面、そこで市川が描いた山田風のイラストが彼女から落ちるシーンがある。いやあ、あれは持ってちゃいけなくない? 

選挙に行こう

 ちらっと見たツイートで、とある新人賞受賞者の方が、その新人賞の編集の方に「他の新人賞にみんな応募してますよ!」と言われて、「新人賞とはいったい…」と嘆いておられた。まあ、嘆きたくなるよな、と思う。前にも書いたけど、賞をとっても仕事は座っていてもやってはこない。個人事業主という感覚で考えるなら、作家側の努力は必要だろうとは私も思う。次作が書けるかもわからん新人よりは、安定の中堅に頼みたいだろう。ただ、それを編の人が言ったらあかんやろ、とは感じる。
 前にも、「作家ばかりに宣伝させて申し訳ない。自分も微力ながらがんばりたい」という感じの編集の方の呟きを見て、うーん、そうかぁ、そうなのかぁ?と思ったことがある。宣伝は確かに編集の人の仕事じゃないとは思うけど、じゃあ作家の仕事ということが前提になっていると、ううむ、そうななの、そうだったの?と思ってしまう。まあ、SNSのない時代の宣伝って、編集も作家も個人でできることは少なかったわけだから、そういう意味で今はみんなができることが前提になってしまっているのが、何か妙なのかもしれない。
 幸い私は、よい編集の方に恵まれていて、どちらかというと働きすぎで心配になるほどである(なんかみんな体を壊してる印象がある)。ブンゲイはある程度の余裕がないとだめかなあと思うので、ここらへんは社会構造の問題な気がする。やっぱりみんなで選挙に行こうね。

 以上。みんないろんなイベントに行けて羨ましい。そのうちお伝えできることもあるが、とりあえず今は細々書いている。