見出し画像

カチカチカチ

 朝目覚めると、大きなザリガニになっていた。東京府中市にある我が家は全壊していて、となりの田村さん家も左半分が大きく抉れていた。どうやら寝返りをうった際に、ハサミがあたったらしい。
 とりあえず自分の破壊力を確認できたところで、渋谷を目指すことに決めた。私にとって渋谷は忌まわしい土地だ。高校の頃は学校が近かったこともあって、友達とよく遊びに行った。でも私は好きじゃなかった。「渋谷の女子高生」という常套句は、街を歩くだけで私たちをカテゴライズ化し、カテゴライズは月並みな視線や声かけを生み、お定まりの様なナンパや叱責にあった。渋谷は自由な街ではなかった。渋谷は象徴性と近代日本のホモソーシャルな価値観に縛られた街だった。
 私にとって渋谷の破壊にためらいなどなかったが、ルートが問題となった。となりの調布市には祖母がいて、踏み潰したくはなかったし、大幅に迂回をするとなると、色々な町に被害が出そうで、それは本意ではなかった。
 結局、多摩川を下ることにした。二子玉川あたりで北に向かえば、自由が丘界隈も潰せるので一石二鳥だった。私は川につかり、進んでいった。初めて知ったが、ザリガニは後ろ向きで泳ぐみたいだ。腰を曲げ、すいすいと泳ぐのは爽快だった。稲城大橋を尾っぽで壊し、多摩川原橋をハサミでちょんぎった。
 二子玉川の高島屋の屋上に乗っかり北東を見やると、太陽のかげに小さく渋谷駅とその街並みが見えた。遠くに走る井の頭線のマーブルチョコみたいな車体を見て、私はサオリを思い出した。私たちは登校ルートが一緒で、渋谷駅のホームで待ち合わせていた。その頃はまだ有人の改札があり、切符を切るカチカチカチカチという音を背景に、朝の早い私はずっと彼女を待っていた。サオリの長い髪と花の香りを記憶の底っぺりに感じて。
 私はハサミをカチカチと鳴らした。とにかく、前へ進もう。カチカチ。私はゆっくり、屋上から降りた。