リツイート

 妻は前澤氏のリツイートをやめなかった。
 前澤氏は実業家で、毎日お金を配って歩いていた。いや、実際には歩いているわけではないのだが、「お金配りおじさん」を称し、二〇一九年の一月に始めた現金配布をきっかけとして、現在は毎日十万円を世界の誰かに送っている、とされている。僕は彼がお金を届けたところを見たことがないので、本当のところはよくわからない。しかし、妻は信じていたし、彼をフォローする一千万人のフォロワーも、ある程度は信じているのだろう。
 前澤氏のツイートは格別多くもない。おおよそ毎日一回、お金配りのことか、あるいはゴルフのこと、自身の車のことなどを呟く。ときどき、ポエミーなことも呟く。妻は律儀にそれを毎日リツイートしていた。そして、決まってリプライしていた。
「私も車が好きなんです。ぜひ今度ご一緒したいです」
「この前初めてゴルフに行って。本当に体力勝負ですね! お身体気をつけてください」
「お金が欲しくないって言ったら嘘になるんですけど、だけど、今はそれよりも前澤さんの夢を応援したいです」
 特に妻は車に興味があるわけでもないし、ゴルフをしたこともない。しかし彼女は、せっせと毎日リプライを重ねていた。のみならず、自身のツイートも、前澤氏が好む(と彼女が思っている)呟きで溢れていた。
「ほんと、母子家庭って、なんでこんなに辛いんだろう。。。お金より理解が欲しい」
「この前、炊き出しのボランティアに初めて行きました。まだまだ自分には変われることがある」
「女性が輝く職場の三つの共通点を見つけました」
 僕は閲覧専用のアカウントを持っていて、妻の呟きを暇なときに眺めていた。こっそり覗いていたのだけど、前にうっかりリツイートをしてしまい、僕のアカウントが知られることになってしまった。妻は不快に思ったようだが、今までの前澤氏へのロビー活動からアカウントを変えることも、鍵垢にすることもできず、結局は気付かないふりをしてくれた。僕はそれに甘えて、やっぱり時々、妻の語る夢や苦労や現実を楽しんでいた。
 ある晩、僕はテレビを見ながら、何とはなしに妻のアカウントを眺めていると、「もう疲れた、死のうと思います」というツイートが、三分前に投稿されていた。「思います」の後には前澤氏のアカウントがコールされている。僕は台所を見てみたが、妻は音楽を聞きながら夕飯の準備をしている。ここまで来たか、と僕は思い、さすがにそれ以上妻の呟きを読む気になれなくなってしまった。
 電話があったのはその日の深夜で、不機嫌そうな妻の声の後、そのまま不機嫌そうな「あなたに」という言葉で、手渡された。
「タダシ様でいらっしゃいますか」
 低い男性の声だった。僕が無言でいると、彼は言った。
「前澤氏がお呼びですので、明日の夕方五時にお伺いいたします」
 それきり、電話は切れた。そして、五時きっかりに、迎えが来た。
 迎えの車はおとぎ話の様に黒塗りで、しかしどこにも車種を判別する手掛りはなかった。扉が閉まると、重々しいゴムボールの音がして、テニスコートみたいに広い後部座席には、僕以外に誰も座っていなかった。
「あの、前澤さんは」
 そう訊ねると、小窓が開いて、運転手のぼんやりした横顔が「前澤氏は現地でお待ちです」とだけ伝えた。当たり前だ。僕は恥ずかしくなった。 
 車はぐるぐると都内を走り、東京タワーの明かりが見える路地に停まった。看板も出ていない料亭に、女将の案内のままに長い廊下をぐねぐね歩くと、金色の襖の向こうに、前澤氏がいた。ひとりで手酌をしている。
「お呼びだてして申し訳ない」
 前澤氏は頭を下げた。いいえと僕は首を振り、腰をおろすか迷いながら、座布団のちょっと端に正座した。前澤氏は「気楽に」と声をかけ、酒をすすめた。
 それから前澤氏は、事業の話を延々と僕にした。僕は半分も理解できなかったが、少なくとも前澤氏には展望があり、財産があり、実現する可能性が大いにあり、月に行こうが何しようが、前澤氏の進む道には陰りなどないように思えた。
「ああそうだ」
 話が尽きたところで、わざとらしく前澤氏は鞄から封筒を出した。封はされておらず、中には札束が見えた。「どうぞこれを」
 僕は数えるべきなのかどうなのか迷い、結局数えた。一から百まで数えた。前澤氏が何か続けるかと思ったのだが、彼は何も言わずに僕をただじっと見つめていた。
 前澤氏が席を立ったところで、僕は携帯でTwitterを開いた。公式マークのついた前澤氏のアカウントは一時間前に更新されていて、アメリカにいる旨が伝えられていた。前澤氏が戻ってきたので、僕はそのツイートを、彼に見せた。
「それで」彼は言った。「何か問題がありますか」
 口を開きかけた僕を、彼は手で制した。
「しかしあなたは、こうして料理を食べ、お金を手にした。これはあなたが求めた結果の一つです。願いは成就され、現実になった。ポスト・トゥルースの時代です。求めるものが手に入るのならば、私が前澤かどうかなんて、些細なことではありませんか」
 僕は黙っていた。名前のついていない汗が背中を一筋伝った。
「同じように、私もあなたが本当にタダシさんかどうかは問題にしません。私は私の目的が達成されれば、あなたが誰であるかは、興味などないのです」
 そしてまた、種類の分からぬ黒塗りの車に乗せられ、ぐるぐると東京中を走り回り、自分の家に帰ってきた。夜は深々としていて、妻はベッドで眠りこけていた。彼女の「死にたい」というツイートはまだ残っていた。僕はそのリツイートボタンを押した。円環に似た矢印のマークは緑色に点灯し、カチリと何かが回る音が、背後で、響いた。