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死の夏を越えたい/『憂い夏、錆びて』感想

俺たちは命を削って生きている。これに例外は無い。死まで一直線、どんな過程を辿ったり、生き延ばそうとしても、その最後は決まっている。
映画館からの帰り道、渋谷の街中で座り込んで街ゆく人を眺めていた。沢山の人たちが生きている。それぞれがそれぞれの職にありついたりありつかなかったりしながら、金を稼いだり稼がなかったりしながら、それぞれに生きている。
今目の前をゆく全ての人、その終わりが等しく決まっているということに、不思議な感覚をおぼえる。

「憂い夏、錆びて」は人が生きている映画だった。そして人が生きているということは、そのまま人が死に向かっているとも言える。
死の夏を越えたい。俺たちは死を目指す旅路を歩みながらも、死を越えながら生きていく。この曲がこの映画の主題歌になっていることに少し納得があった。

「憂い夏、錆びて」は言葉の映画だった。地獄のような日常で、たまたま出会った人のテキトーな言葉に救われたりする。穏やかな日常で、善良な人の言葉に傷付くこともある。空っぽだから誰かを救えないわけではなく、また善良であるから誰かを救えるわけでもない。
人との関わりはピンボールみたいだと思う。たまたまぶつかって重なり、たまたま分たれたりする。運命に属性はないのかもしれない。出会いが運命的であるからその先に幸福が待っているとも限らないし、ありふれた出会いの先で幸福を得るかもしれない。運命的であるということは、ただそれだけ。世界はゆっくりと回る。季節はゆっくりと巡る。大きなうねりの中で、俺たちは喜んだり悲しんだり、何かに怒ったり、祈りを抱えたりしながら、今を生きている。

憂い夏が、滔々とゆく。

「誰かの何かになりたい」について。でも本当はきっと誰でもいいわけではなく、何かになりたいと心から思える誰かをいつも探している。そしてそういう人ほどあっさり居なくなったりする。やっぱり人との関わりはピンボールみたいだ。たまたま出会って、たまたま離れていく。勝手に救われたり、勝手に傷付いていく。自分の空っぽが誰かの光だったり、誰かの美しさに気が狂いそうになったりする。
さよならだけが人生だという言葉がある。その瞬間はどこに、いつ訪れるかわからない。なら出来ることはいま居てくれる人達に、たまたまぶつかって重なったこの瞬間に、精一杯優しく在ろうとすることだけなのだろう。

そんな理屈を、頭ではわかっていても、死にたくなることはある。誰かの何かになりたかった。そんな想いで心が張り裂けそうになる。心が動くのは生きている証拠なのに、心が自分を殺しにかかってくる。
生きるというのは死に向かうこと。俺たちは死に向かいながら生きようと願い、死に抗っている。そういうものを思い起こさせる映画だった。

死の夏を越えたい。もう片付かない部屋であなたを待ってるから、真冬にまた会いたい。

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