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最後に残された幸福

人が生まれてから死ぬまでの全ての行為が暇つぶしだとして、その事実から目を離す現実逃避の手段が”人生に意味や目標を見出す行為”だとしたら、もうそろそろいいかなってお風呂から上がるみたいに死を選択してしまう人が多いのも納得できる。


2年前の私のツイートです。
そして2年後の私はまさにこの状況に陥っていました。


二週間前、信頼していた仕事の先輩に「被虐待児」という偏見で貶められてから、私はどんなに普通に生きようとしてもそのレッテルから逃れられないことを知りました。ずっと悩んできたことだった。知らない誰かに言われたならまだよかったかもしれない。でも信頼している人にまで言われたのは流石に堪えてしまいました。人と接する時のちょうど良い距離感や関係性構築がうまくできない事実にものすごく苦しみました。
一週間前、どんどん自信がなくなって摂食障害の症状が出始めました。何を食べても吐いてしまうんです。生きることを拒否するように、体は食べ物を拒みました。
二日前、人生で初めて、大好きだった人に浮気されました。私はその程度の人間なんだなと、諦めがつきました。


もういっかなと思いました。
涙も出ませんでした。この生きづらさを理解してもらうことはきっと難しくて、生きやすい努力をする気力もありませんでした。
だってみんな辛い時代だから。私だけじゃない、みんな辛い。
みんな辛いけど弱音を吐かずに頑張っていて、そんな人たちの小さな救いになるために文章を書いてきたはずなのに、当の本人は救いようがありませんでした。


ストロング缶を飲みながら、辛くてある人に電話をかけました。
相手に言われたのは「なんでそんなふうになっちゃったの」でした。
それ、一番言われたくない言葉だったな。私は今までいい子のフリして生きてきました。昔はよく、手のかからない子だと言われていました。でも本当はそんなできた子じゃないんですよ。本当の私を否定されたような気がしました。


でもね、最近誰とも連絡を取ってなかったんだけど、兄からLINEがきてたの。
兄はさーの死にたい気持ちを否定しないよって。でも兄の命よりも大切と思ってしまうほど大切な妹なんだって。死んだおじいちゃんおばあちゃんもパパも、さーに溢れんばかりの愛情をくれたでしょ、それを思い出してって。いつでも帰っておいでって。


不甲斐なかった。兄に死ぬのを止めてもらう妹がどこにいるだろう。
私はもう誰にも愛してもらえないと思っています。
でも過去に私が愛された事実は確かにあリました。


私は死ぬのは怖くありません。
死んでもパパに会えるしな、くらいの気持ちです。
でも私が死ぬことでお母さんと兄が泣くのは辛いです。
私が死ぬのを躊躇する理由はその一つに限ります。


悲しむ人の顔を思い浮かべることができる。それによって躊躇してしまう自分がいる。
きっとこれは、死を焦がれる人間にたった一つ残された最後の幸福。










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