【読む映画】『スラムドッグ&ミリオネア』

「運」を語る原作 「運命」説く映画

 原作は、インドの現役外交官ヴィカス・スワラップによる世界的ベストセラー『ぼくと1ルピーの神様』(子安亜弥訳、ランダムハウス講談社 2006年)。教会に捨てられていた、ラム・ムハンマド・トーマスという、ヒンドゥ教徒・ムスリム・クリスチャン名を連ねた珍奇な名前の少年が語る、娯楽色も豊かなビルドゥングスロマン(教養小説)である。

 数年前、あまりの面白さに一気読みして最後の1行にたどりついた途端――水風船がはじけるように涙があふれた。そんな経験をしたのは初めてだ。

 対して、ゴールデン・グローブ賞4部門・アカデミー賞8部門を受賞した本作が原作と共有するのは、「クイズ$ミリオネア」として日本でも知られる、英国発祥のクイズ番組をモチーフに使う点だけである。

 徐々に難易度が上がるクイズに正解するほど高額の賞金が手に入るという番組で勝ちぬいた青年ジャマールが、スラム育ちの孤児で教育もないことから詐欺を疑われ、警察に逮捕される。彼が警部に語る、クイズに正答できた理由がそのまま、自身の過酷な生い立ちに重なる。
 回想の中心は、兄のサリームと、義妹のようなラティカとの日々だ。スラムで生活していたムスリムの兄弟は、幼い日、ヒンドゥ教徒の暴徒に唯一の肉親である母親を殺されて逃げまどう。おそらく同じような経緯で天涯孤独になった同年齢のラティカと知り合い、義きょうだいのようにして路上をさまよう先には、搾取者の毒牙が待ち受けていた。

 幕開きの、子ども目線で躍動感のあるカメラワークは興味深い。また、インド映画界筆頭の作曲家で、主題歌賞などオスカー2冠のA・R・ラフマーンによる音楽もチェックしたい。特筆すべきは、幼年時代を演じた3人の子役である。

 ところが、3人を強引かつ卑しくも三角関係に追いこむ少年時代以降、ドラマは迷走し始める。また、ムンバイを仕切るマフィアの描き方をはじめ、現地の感覚からすれば非常識・非現実的な描写がやたら目につくようになる。
 実際、インドでの本作に対する評価は低く、早くから、ドミニク・ラピエールのルポ『歓喜の街カルカッタ』をハリウッド映画化した『シティ・オブ・ジョイ』(1992)と大同小異だと批判されていた。これは実に的を射た指摘で、本作もインドを舞台にインド人・インド系の俳優が演じる、ご都合主義的でチープな“ハリウッド映画”に成りさがっていく。

 最も脱力するのは、後半のラブストーリーの主役、青年ジャマールとラティカにまったく魅力がないため感情移入できないことだ。ルックスや演技力もだが、何よりもキャラクター造形に問題がある。そしてこのことは、インドでの批判のひとつ、原作の換骨奪胎の問題と密接に関係する。

 「運じゃなく、運命だった」というのが映画のタグラインで、台詞にも〔運命〕が頻出する。スラム生まれなど不遇に置かれた子どもに〔運命〕を説くほどの不正義もないのではないかと私は思うが、原作のほうは対照的に〔運〕の話をしている。

 映画の半ば、ジャマールが番組に出たのは、引き裂かれた恋人が自分を見つけてくれるかもしれないと期待してのことだとわかる。彼女はマフィアの軟禁状態にあるのだから理由自体に無理があるが、ともかく自分から探しだそうというより受け身なのだ。なにしろ〔運命〕には抗えないから。

 これに対して、原作の主人公が番組に出た理由はまったく違う。「1ルピーの神様」とは路上の占い師からもらった幸運のコインで、主人公はそれに頼りつつ〔運〕に能動的であろうとする。
 どんでん返しの多い小説でコインにも謎があるので、ぜひ直接確かめていただきたい。原作と映画とでは、つくり手の志が天と地ほども違うことが実感できるだろう。

『スラムドッグ$ミリオネア』
監督:ダニー・ボイル
原作:ヴィカス・スワラップ
脚本:サイモン・ビューフォイ
作曲:A・R・ラフマーン
出演:デーヴ・パテル、アニル・カプール、イルファーン・カーン、フリーダ・ピント、ソーラブ・シュクラほか
2008年/英国/120分

初出:『週刊金曜日』2009年4月24日号(748号)、境分万純名義。


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