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毒親を捨てた私②

子供の頃から自分の両親には違和感しかなかったです。

よく小学校で「尊敬する人は誰ですか?」って聞いたりするじゃないですか先生が生徒に。クラスの殆どが『両親です』って答えていたけど、私は口が裂けてもこの言葉を出したくなかったです。尊敬だなんてこれっぽっちも思った事ないのだから無理でした。でもクラスの殆どが両親を尊敬しているのに自分だけよく知らない野口英世を尊敬する人物に推すにはリスクがありすぎました。先生につっこまれたりしたらすぐボロが出てしまう。それでも尊敬できない両親を尊敬する人物としてあげることはできませんでした。それぐらい子供の頃から嫌いでした。

私は母親と永遠に距離を置きたくて地域包括支援センターに相談し電話に出ない会わないを徹底する事にしました。私はスマホの着拒、固定電話のコンセントを抜き子供たちにも着拒をするように指示しました。誰とも連絡が取れなくなった母は直接私の家に訪ねてきました。インターホンを連打で鳴らし私は居留守を通しました。母の住んでいるマンションの管理人に電話させたりもしました。その頃から私の体はうつ状態、下痢、頭痛、めまいで、辛かったです。

そして1ヶ月経ったある日、母はベッドから落ちて尻餅をついて胸骨を圧迫骨折をして自分で救急車を呼び、私は病院から呼び出され1ヶ月ぶりに対面することになりました。何か怒っていたけど顔を見ないようにしていたので殆ど覚えていません。

入院中はコロナな影響で面会禁止だったので大変助かりました。でも骨折の状態は軽く歩行も前のようにできるから近いうちに退院できると言われ、でも高齢者だからお風呂の見守りの話が出た時現実に戻されました。ヘルパーさんが家に来るのは嫌だと言っているから娘さんお願いしますってあっさり看護師さんが言うんです。何のためにに距離を置いているのに本末転倒です。すぐに包括支援センターに相談してその時『身元保証』と言う形を取ることに決心しました。身元保証の契約が退院までに間に合えばその事業所の人に退院のお迎えを頼めます。包括支援センターも退院を少し伸ばすよう病院にお願いしていたようでした。

でも病院は2日前に突然退院の日にちを告げてきて帰りは介護タクシーで帰っていただますと。そして包括支援センターには事後報告で退院してから聞いたようです。入院中も看護師さんを困らせ私に電話をかけさせてきました。病院でも嫌われて半ば追い出された感じでした。まだ身元保証の手続きをする前でお風呂の見守りもいないし中途半端な状態で不安でした。病院が突き放したと言えもしもの事があったら後味が悪いです。

退院から5日後に身元保証の契約をしました。母に身元保証の話をするか手紙でもいいから知らせて欲しいと言われたので短い手紙を玄関ポストに入れてきました。

長年にわたり受けた嫌がらせの為、心身共に疲弊してしまいこれからのお世話が無理になってしまった事。これからは身元保証の事業所の人が身の回りの世話をします。

もう2度と会う事はない。

最後に書いた言葉が自分でも辛くて母は大丈夫だろうかと要らぬ心配をしてみたり。

私がnoteに書いている記事は自己弁護の為です。こんなに酷い目に遭ってきて仕方がないのですって誰かに責められる前に守っているのです。身元保証をしたら楽になるかと思ったけど相変わらずインターホンに怯えて外出時に挙動不審になるし、毎日安否確認の為、市とお弁当屋さんが提携して何かあれば包括支援センターと身元保証の方に連絡が行くようです。前までは私の所にも連絡をするようだったけど、一抜けたの私には連絡は死亡してからになりました。

毎日毎日、葛藤です。

でも撤回したくありません。

私と連絡が取れなくなって留守番サービスをしている私の子供に無言電話が入っていたようです。着拒をしていてもメッセージが入れられるのですね。


私は恐らく母がこの世を去るまであるいは、死に方によっては一生母に苦しめられるのかもしれません。

毒親の母の事はひとまずこれで終わりです。毒親が及ぼした影響など機会があったら書きたいと思います。読んでくれてありがとうございました。

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