ちょこっと勉強「有間皇子」①
昨日の続きです。
本題。「有間皇子」
・孝徳天皇と小足姫の息子
・孝徳天皇死後に、叔母 皇極女帝(斉明)は自分の息子(中大兄皇子、
大海人皇子)に後を継がせたい。
・蘇我赤兄をけしかけて謀反を起こさせるように仕向けた。
・『有間皇子の変』(諸々教わったことは今は端折ります。)
後岡本宮御宇天皇代 有間皇子自傷結松枝歌二首
1.
磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(巻2 141)
現代語訳 岩代のこの浜松の枝を引き結んで(神に無事を祈るが)幸いにももし無事であったなら、この結び松を立ち戻って見よう。
2.
家にあれば筒に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(巻2 142)
現代語訳 家にいる時なら器に盛ってきちんと手向ける飯を今は旅の途次、椎の葉に盛って捧げることだ。
万葉集に収められているのはこの二首のみということです。
この時点ではまだ私は有間皇子の身に起きた事象を知らないことを前提に、この二首を読んで感じたことを書きます。(実際に上記内容を教えてくださるまで「なにがあったの?」と思っていました。)
1.何かの濡れ衣を着せられ、おそらく死を覚悟したんだな。それでも神に強く祈って無事に戻れることを夢見たんだと思う。丈夫な松の枝を引き結ぶなんて相当力を入れなきゃできないだろうし、それだけ祈る思いが強かったってことだと感じました。
2.逃避行の途中、ちゃんとした器がないから、葉っぱに乾飯を盛って食べている。ふやかしてから盛ったのかわからないけれど、葉っぱを使っていることから、相当急いで逃げてるのだろうな。多分着の身着のままの道中なのかもしれないと、哀れに感じました。
※日本書紀には天皇家にとって都合の良いことしか書かれていない。都合の悪いことを、歌集からひも解くことが歴史の真実を暴くというか、天皇家の真実に近づくというか。
「有間皇子」に起きたことを知れば、そりゃあ都合悪くて後世には語り継がせたくない汚点です。
捕らえられ、尋問を受けたでしょう。
「天興赤兄知 吾全不知」(天と赤兄のみが知る 私は知らない)
いい人すぎて謀反をけしかけられたことに気付いていなかったのだろうけれど、多分 赤兄が悪いことをしていたとは思っていなかったのかも。
確か一九歳という若さで亡くなったということです。しかも絞首刑。晒されたままとか。惨いことをしますよね。(藤白の坂)
この事件、一番に欲をかいたのは皇極女帝の方だと思います。ついで蘇我赤兄。皇極女帝の息子の一人「中大兄皇子」が天智帝となり、晩年に赤兄は左大臣に昇進。政権のトップですよ。後々乱がおきて没落しますけれど、それでも一時最高の夢を見れたのだからよかったことでしょう。ここでもし赤兄が恨みを抱くようなことがあれば、何言ってんだお前?ってなるでしょう。一番恨みを持っているのは「有間皇子」なのですから。
ここでちょっとオカルトな話。
大昔から続く天皇家はいくつかに系統が分かれて今に続いていますが、系統が分かれるだけで、それぞれに政争で亡くなった人は少なくないでしょう。
天皇家だけでなく政権についていた大臣でさえ、言いがかりをつけられ左遷させられ悔しさを抱いたまま亡くなった方もいます。
彼らがそれぞれ強い恨みを抱いたまま亡くなっているわけですから、たとえ後に神として祀られようと、それはそれ、恨みは消えていないでしょう。
ということは、代々続く天皇家は恨まれているのでは?それら恨みの念を鎮めるために、大きな神社を代表として様々な神事が執り行なわれているのではないのか?小さな神社が行う神事も実際は天皇家のために執り行なわれているのでは?
そんな風に考えてしまうのは、私がオカルト好きだからでしょうか?
よく「末代まで祟る」と言うのを聞きますが、天皇家が今も続いているのは、全国の神社が天皇家を守っているからだと思っています。そして、そんな神社を守るのが、そこに勤める神職さんや氏子さんたちだと思います。
どんなに惨い過去を持っていようと、なんだかんだ言いながらも、日本人は日本から天皇家が無ければ、日本でなくなると心のとても深い、真っ暗闇の中で確信しているのかも知れないと思っています。
しばらく「有間皇子」の勉強です。
次回の講義は8月26日。その日までに「大津皇子」の予習をするのですが、「有間皇子」の不幸すぎる背景をもう少し勉強します。
文学から歴史をひも解くなんてね…。
中学、高校と古典文学は「国語」の領域で、歴史は「社会」の領域だったから、余計わからなくて苦手意識が強かったのかも知れません。
今はどのようにアプローチしているのかわからないけれど、今回受けている講義はわかりやすくて、勉強しやすいです。
本文とは全く関係のない写真は、今日「湖北野鳥センター」前で撮ったものです。
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