その後の未来

「記憶の行方」と、いうタイトルで、記憶をテーマに書いていますが、昨年、zoomやメールなど、あれこれ話したことから文字起こししています。フィクションと読んでもらってもよい日記、に分けて書いています。

事実を書けば書くほど、真実味がなくなってしまい、読んだ人には届きようのないことが起きる。

フィクションであることで、誰かの物語を自分の物語として、捉えられる、って、なぜなんでしょうね。

記憶とは非常に曖昧で、同じ出来事でも自分の記憶と同じ場所に居合わせた他者の記憶は全く違っていることもあり、思い出とは、クロスステッチみたいなものだな、と、思う。

先日、「プレイハウス」というイベントに参加して、夕方からさらに、コントの中で早朝から夜にかけての一日を過ごして、2日間ぐらい時が過ぎてしまったように、あっという間に昨日が終わってしまった。

東京にいながら、東京ドームシティホールに遊びに行ったことがなく、東京にはない、東京ディズニーランドには、行ったことがあるという、クロスオーバーぶりに、いかんな、少しは遊ばないとね、コロナも明け始めているから、と、先日は昼間は「明烏」を聴いて、話し方のリズムに、よよっと乗って来て、新しい靴を購入して、出かけて行った。

少し早いが初詣気分で出掛けて、思春期の息子は怒りながら、5メートル程離れて後から歩いて来ていた。

ホールに到着した時に、明け方の寸劇が始まり、カックラキン大放送を思い出しながら、苦笑を止めるのが大変だった。

荒田さんのドラムの圧が心臓に来てやばかった、Cateenさんの暴れたピアノが面白かった、しんごちゃんは、なんか、登場から違った、動きが、何かが違ったと、少し歩いて感想を聞いていた。自宅付近の道なりを走ってみたり、腰パンになってしまったと、ピングーみたいに背伸びしてみたり、人前に出て何かを成し遂げる人たちの動きや演奏を目の当たりにした子を見て、わくわくしていた。公演が終わった後に、船酔いみたいな感覚になった。という。

私は、目の前で聴いて見たかった方々が登場し、ホールに来ていた人々のそれぞれのドラマを感じながら、寒いはずの天気予報は、外れて、コートでは暑いぐらいの熱気で、ドリンクを片手に持ったまま、熱量を持て余して聴いていた。

弦楽器の皆さん微動だにせず、観葉植物とともに背景に溶け込む勢いで演奏する姿にも目を奪われていた。

東京ドームといえば、ドームがある分、湿気が多く投球が狂いやすい野球場なんですが、

両膝を両手で支え始めた9回裏。満塁ツーランなら逆転の場面。バッターボックスに8番ライトが立った時にもうこりゃだめだと泣いてしまう選手が息子ならなんと声をかけるか?と想像していて、

「こらっ!泣いてる場合か、しっかりしなさい!」

と、思わず声を出しそうになり、いかん、公開生放送中、「志村うしろうしろ」と言ってしまうこども状態になりそう、と、息を飲んだ。

いろいろあり過ぎた2020年〜2021年。煤落としは、終わり。春はすぐそこ。

ほんの少し、未来について、思いを馳せた。










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