見出し画像

白い光の中へ

 昔はこの辺りも随分と賑わっていたものですけどね、近頃ではさっぱり観光客も寄り付かなくなって、私らの商売もあがったりですわ。古い旅館を家族で切り盛りする年配の女将はそう言って自嘲気味に嗤った。
 簡素な朝食を頂いた後、ふと窓外の風景を目にしてみる。普段なら緑の田畑が広がるであろう平野は一面の雪景色となって、朝の陽光がキラキラと眩しく瞳孔を刺激する。遠く山の端に小鳥の囀りが聴こえて、それが逆に静寂さを増幅させている。人の気配はまるでない。宿の西端に小さな湖水があって今朝方はその表面に薄氷が張っていた。水はどこまでも清く澄んでその清々しさを際立たせていた。
 露天風呂に行ってみるかい? わたしの問い掛けに女は多少の恥じらいを見せながらも小さく頷く。
浴衣の裾を乱さぬよう気をつけながら支度を整えるその姿は雪原に立つ一羽の鶴をわたしに想起させた。裸足のくるぶし辺りが畳の上で寒そうにしているのが目に染みて何とも言葉が告げなくなる。
 黙ったままギシギシと音を立てる木の廊下を歩いて露天風呂のある別棟に向かった。木造の小さな旅館なので別棟と言っても母屋に隣接する小さな小屋みたいなものだ。そこで男女別の脱衣所に入る。
 タオル一枚持って露天風呂に浸かっていると暫くして別の戸口より女が姿を現した。乳房の辺りから身体の前面だけタオルで隠して二歩三歩と湯舟に近付く。隠しきれない身体の線が湯けむりの向こうでゆらゆらと揺れる。女は湯の前で横向きに腰を落とすと備え付けの洗面器で湯を汲み身体に浴びせた。タオルが濡れるとそれは肉体に張りついて乳房の膨らみ、臀部の丸い形が顕になり、白い肌が湯に染まってうっすらと桃色を帯びた。黒髪は程良く纏められていたが、ほつれ髪がひと筋濡れて襟足に張り付いていた。
 女は湯に入ると静かに身体を滑らせわたしの隣に鎮座した。二人分の伸ばした脚が湯の中で重なり合って見える。淡い光が木漏れ日の隙間を縫って湯面を光らせた。早朝の空気に硫黄の匂いが紛れ込んで鼻腔をくすぐる。カルシウムやナトリウムなどの成分を帯びた湯はヌルヌルと身体に纏わりついて肌触りが良い。女の髪の毛にそっと顔を近付けてみると昨晩の情交が脳内によみがえり体内の血が騒ぎ立つ。
 昨夜はよく眠れたか? わたしの問いに女は頬を染め小さく頷いた。
 湯の中でわたしは片手で女の手を握り、もう一方の手を乳房に宛てがった。そして唇を重ねる。女の太腿の辺りがわたしのそれに触れ、激しく抱き合った。

 部屋に戻ると布団は片付けられていて食べ終えた朝食の膳も下げられていた。その代わり座卓の上にはこの地方の銘菓とお茶のセットが乗せられていた。
 お茶を淹れる女の手元を見ているとふと哀しさがわたしの胸に去来した。
 どうぞとわたしの前に温かいお茶が置かれる。
 礼を述べ一口すする。喉元から胸に熱が広がり、これが生きてる証かと思われ今更ながら逡巡に心が乱される。
 和菓子を口にする女の上品な口元を見ていると、何故だか申し訳ない気持ちが湧き出でて涙を堪えるのに労力が必要とされた。
 果たして、本当にこれで良いのだろうか? 再びわたしは自問してみる。しかし相手の答えを訊くまでもない。その瞳、眉の線は揺るぎない決意の底を如実に表しているのだった。女は微動だにしない。
 それから暫くの時間を我々は静寂の元に身を寄せて過ごした。
 
 時が来た。わたし達は僅かな手荷物を持ち、二人ともコートを羽織った。
 宿代の清算を終えると年配の女将はこれ以上ない程の笑顔を見せて、またのお越しをお待ちしておりますと丁寧に頭を下げた。
 静かに頭を下げる二人は永遠にその日が来ないことを既に知っている。
 玄関を出るとぴんと張り詰めた冷たい空気が待っていた。小さな村道をバス停とは反対方向へと歩く。暫くすると左側の山の斜面に石段が続いていた。その山道を上がる。
 周囲は雪で埋もれた林が広がり、この先を登り詰めたところに人気の無い小さな仏閣がある。一歩一歩薄く雪の積もった山道を踏みしめる度に、脳裏を過ぎる想いがあった。何故この地を選んだのかさえ、当に思い出せずにいた。何かに導かれるようにそこに向かおうとしていた。
 決して正しい選択ではない。ただ他に道が無かっただけ。何度か自分に言い訳をした。理解を示す人なんてどこにもいない。
 罵声を浴びせられた記憶、頬を打たれた記憶、女の方でも雨の中蹴られた過去など、消すに消せない多くの物事が渦巻いて、今もきっと自分を責め続けていることだろう。そんな一切合切を胸の奥に閉じ込めてこの雪の山道を黙して歩いた。

 仏閣が見えて来た。思っていたより小さなもので、かなり古びた木造の仏舎利である。明治より以前のものであろうか、見ようによっては鎌倉時代かもしれぬと要らぬ考察を巡らしてみる。それはともかく、閉ざされた表扉の前にてわたし達は手を合わせて赦しを乞うた。誰の赦しか、赦される物事なのか、そんなことなど、今はもう考えまい。もう決めてしまったことだ。後戻りは出来ない。断ち切るように顔を上げた。
 そして仏舎の裏側に回る。狭いスペースに石の段がある。少し大きめで平らな石を見つけてそこにコートを脱いで敷く。
 二人して並んで腰掛けると世界から孤立された気がした。実際そうなのだ。
 こんな場合、何かを言うか、書き留めるかした方が良いのかも知れない。けれど、その時のわたしには何の言葉も見つけられなかった。
 あ、うさぎ……、突然、女は左斜め前方を指差し小さな声をあげた。見ると林の木陰の雪の中を二匹の兎が跳ねて行く後ろ姿が見えた。
 どこへ行くのだろう そう呟いた声は小さな白い息になって空中を漂い、消えた。同様に兎達もやがて林の奥深くへと消えて行った。
 わたしは予め用意して来た紅色の紐で自分の左手と女の右手を強く結んだ。二人の手は指をしっかり絡め繋ぎ合った状態だ。手筈を整え、女の顔を見ると凛とした顔にその瞳は閉ざされていた。
 ふと一筋の涙を見たような気がして、わたしは一瞬躊躇する。だが、それはどうやら思い違いのようだった。
 わたしは片手で女の身体を支え、ゆっくりとその場に仰向けに寝かせて、その隣にぴったりと身体を寄せて横たわる。
 目を開けると青空に白い雲がゆったりとたなびいている。時折日差しが木々の隙間より射し込む。
 大きく息を吸い込んだ。
 すまない……
 声にはならなかった。誰に言った言葉なのかさえ、気付かないまま、胸のポケットから剃刀を取り出した。
 最期に女の横顔を見た。
 目を閉じていたはずの女がしっかりと目を開いてこちらを見た気がした。
 澱みのない強い意志をその眼差しから感じた。
 剃刀を持つ手に力を込め、それを女の手首に近付ける。そして強く引いた。女の身体がぴくりと動き、小さな叫びを聴いた。それから自分の左の手首を強く引き裂いた。やがてその場に不似合いな程の鮮血が飛び散り、わたしは不謹慎にもそれを美しいと感じた。
 


 薄れ行く意識は、やがて白い光の中へと旅立って行き、それは、この上もない幸せな気分であった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?