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黒髪を切る迄


 特別なことなど何もない。それで世間を揺るがすこともない。新聞の切り抜き1ページにもならない。ましてやネットニュースにも流れない。いいねも悲しいねもつくはずがない。
 それは彼らとわたしの物語。

 小野さんはアワノと仲が良かったのよね。二人してお笑い芸人になろうと、『オノアワノ』なんてコンビ名まで考えて。

 でも東京行きの新幹線に乗ったのはアワノひとり。
 裏切りは小野さんの方にあったのよ。
 それでもアワノはめげることはなかったわ。土下座して頼み込んである有名漫才師の弟子となって、大手芸能プロダクションに潜り込み、大物演歌歌手のカバン持ちとして雇われたの。

 でもアワノの芸能生活は哀れなものだったわ。明けても暮れても荷物運びばかり、誰かの代役で舞台に上がったこともあるけれど、ウケることなくおしまいよ。地方のイベントで司会なんかもしてたわね。やる気のなさが周囲に伝わって叱られたあげく、放送禁止用語を連発したりして、お笑いや芸からは程遠く、そのやけっぱちな態度が、多くの顰蹙を買うことになったのよ。
 七年後、破門を言い渡されたアワノは、破門の原因となった女にも捨てられ、地方都市のショーパブの雇われ店長として、第二の人生をスタートさせたの。
 そこでは持ち前のエンターテイメント性を思う存分発揮して、モノマネ、漫談、歌やコントを披露して、司会者として週末の盛り場を大いに盛り上げたわ。
 今考えるとその頃がアワノの人生の一番輝かしい時期だった気がするの。

 それでね一方、小野さんはというと、地道にサラリーマン生活を送っていたの。彼には支えるべき家族があったから。
 でも、仕事は芳しくなく、職を転々とすることになった。貧困の極みに喘ぐことになるのよ。
 ところがやがて、支えていたはずの家族もひとり死に、ふたり死に、とうとう天涯孤独の身になったわ。
 そんな時、ふと現れたフィリピン人の女性に心を奪われてしまった小野さんは、生活の全てを彼女に捧げてしまうことになるのよ。

 誰もが予想した通り、小野さんが入れ上げたフィリピン女性は、彼を騙して利用していただけで、ある日突然、いなくなったわ。
 彼女にいくらお金を騙し盗られたかなんて小野さんは一言も口にしなかった。貧乏だけどもプライドだけはあったようね。
 小野さんは昼も夜も働いて、借金を返済し、爪に火を灯すような生活をして、どうにか蓄えたお金で、フィリピン行きの航空チケットを手にしたの。

 小野さんを騙した女性はフィリピンに帰って大富豪の奥さんとして家庭に収まっていたのね。尋ね尋ねしてようやく彼女に再会した小野さんは、けんもほろろに追い返され、まったく相手にされなかった。
 それでも食い下がる小野さんは用心棒らしき男たちに捕まって、酷い暴力を受け、不審者として身柄を警察に引き渡され、そのまま日本に強制送還させられたのよ。

 身も心もずたぼろになった小野さんは自暴自棄になって、荒んだ生活を送るようになったわ。さすがにホームレスにまでならなかったのは、せめてもの救いよね。

 さて、地方のショーパブで雇われ店長として賑やかに暮らしていたアワノだったけど、そこそこお金も稼いで楽しい毎日を暮らしていたのね。仲良くなった彼女もいたようで。でもいいことってそうそう長くは続かないものね。
 お酒の飲み過ぎで肝臓を痛めてしまって、体調を崩す日々が続いて、何日も寝込んでしまって、やっと職場復帰しても顔色は冴えなくて、売り物であったはずの歯切れの良いトークやみんなを笑わせる軽妙な芸風は鳴りを潜めて、次第に人気は落ち目になってしまい、とうとうある日、店のオーナーからクビを告げられてしまったの。
 もちろん職を失ったとたん彼女にも振られてしまい、万事休すよ。

 行くところもない独り身のアワノは仕方なく地元に帰って来たわ。東京で一旗あげると息巻いて出て行ってから十年以上の月日が経ち、結果としては故郷に錦を飾るどころか、その逆、ひっそりと寂しいご帰還だったわね。まだまだ北風の強い真冬の故郷は、ネオンも無く暗くて、人気のない夜道をトボトボ歩いたのよ。

 それからアワノはなんとか生活のため、知人の世話もあり、健康食品のネット販売を手掛けたの。
 怪しい物じゃないのよ。それなりに信頼のおけるちゃんとした商品を取り扱ったわ。
 売れ行きは微々たるものだったけど、そうね、それでも少しずつ軌道に乗り出したわ。副業もたくさんしてたしね。
 副業? それはいろんな人のお手伝いね。ハウスクリーニングやら、リフォームに塗装工事、水回りの修繕やら電気工事。とにかく、地道に働いていたのよ。



 さて、ちょっと疲れちゃったから、このお話の続きはまた今度にするわね。

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