Facebookという眩しい光

私はこれまで、可もなく不可もなく、自分でも平凡な生活を送ってきた。ところが、20代後半に差し掛かると、私の身の周りにも転職したり独立したりする人が次第に増えてきて、「このままで良いのだろうか」という焦燥感に駆られてしまう。
それを頭から追いやるため、私がとりあえず選んだのは、学生時代ずっと苦手だった英語の勉強である。英語は何度挫折したかもう忘れたけど、今回もまたTOEICで高得点を目指すという果てしない目標に向かって漠然と頑張っていきたい。

と意識高く考えてみたりもしたが、本当の目的は、焦燥感を頭から取り除くことだから、TOEICの点数なんかどうたって良いのである。

とりあえず参考書を開き、文法や英単語をノートに書き写していく。ペンを握ってノートに書く。この単純作業に心地よさを感じた次の瞬間、私は勉強に飽きて、スマートフォンを開く。もうペンを握る力は残っていません。

最近は特に集中力(を維持する力)が落ちてきたので、気がつけばYoutubeを見ているし、Twitterを開いている。それこそ、コンビニ弁当に飽きるように、この手のWebコンテンツには食傷気味だというのに、手が止まらない。

そうだ、久しぶりにFacebookでも開いてみよう。ーーーどうせ誰も更新していないに決まってる。そう思ったが束の間、昔の知り合い、いつかの友達、そんな彼ら彼女らの極めて鼻につく成功体験のがびっしりのタイムライン。頭に電流が流れる。ふざけるな。おまけに、彼らの成功体験に対する賞賛のコメントが大量に並んでいるではないか。

目から涙が出るのを抑えるのが精一杯で、私の心のダムは決壊し、平常心という田舎町を濁流が襲う。

この人たちと私の違いはなんだろう。努力の差?人生経験の差?なんだか知らないけど、やりようのない苛立ちに、これまでの平凡な生活に対する憎悪が湧き上がる。

平凡に生きてきたように思っていたけど、急に奈落に突き落とされた気分だ。どうにかして「上」に立ちたい。チヤホヤされたい。そんな狡猾な思いが、やがて私のペンを握る力を強くさせるのである。

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