発達特性に合わせた育て方①


はじめに

発達障害と言われる人の中には、知的障害や身体症状に及ぶ神経症を伴わない人もいます。
グレーゾーンと言われる人には無自覚な人も多いです。

私はグレーゾーンに近いと認識しているけど、症状的には割と出やすく、仕事の中や人との間での『障害』を感じやすいため、『発達障害』として診断(要治療)とされていると認識しています。

私のような方やそのご家族の対応に悩まれている方の参考になれば幸いです。

発達特性への認識

発達特性は誰にでもあり、それぞれ思考が違うから面白いというもの。だけど、その中でも多数派と少数派があるようです。それは、右利きと左利きという特性と同じようなものと思っています。

左利きの私は、右手で字を書き箸を使えるよう教えられてきて、今ではどちらも右手です。ハサミは左だけど、右利き用ハサミを使い、左利き用を左手で使うのは苦手です。こんな風にそれなりに『適応させて』生きています。

これは小さな1習慣の話ですが、これが社会の中の様々な箇所で起こり、『こうすることが正しい』『こうすべき』と言われてしまうと、
完璧主義・潔癖の特性が仇となり、自分にストレスが溜まり過ぎ、
「適応させるための思考」と「自分本来の思考」の調整が取れず
混線してきます。
これがパニック → 思考停止 → 意欲低下
と、繋がっていきます。

だから、社会での通例は『皆が心地よく過ごすためのルール』で、
まずは『自分の心地よいやり方は何か』を知ることが大切だなと
感じます。

特性の理解がないから生きづらい

何かを諦めた小学3年生

私は30代になるまで自分の特性を無視していました。
左利きという分かりやすい特性さえも『無視』して生きていました。
だから、生活の中のちょっとしたストレスも『自分の不器用さ』のせいにして恨んでいました。左で字を書く友人を見て、物凄く不思議な気分だったことも覚えています。

そこには『私と似た特性をもつ父親』と『劣等感の強い母』の存在が大きく関わっていました。
父は教師で母は専業主婦の我が家は、学校や社会に適応できる人であることをとても重要視していたのだと、私は大人になって気づきました。

学校で不備がないように、気にしていたのは私ではなくて、母の方。『娘が困らないように』という配慮は、『私のこだわり』を奪っていきました。母の『こうしなさい・あれしたの?』は、私が注意すべき大きなボイントとなり、自分がどうしたいかに着目したことはありませんでした。

特に発達特性として
・コダワリが強い
・人の意図を読むのが苦手
という私は、母の意向を汲むことが難しすぎて、他のことへの集中力を失っていました。

小学3年生で学校給食を毎日拒否するという抵抗をして以来、私は何かを大きく諦めたという記憶がうっすらあります。

幼稚園まで祖父母との同居で、
隣の家には仲良しおじさんがいてくれて、
私はとても自由に好きなのように過ごし、
『心地よさ』は体感していたのだと思う。

そこから、小学生に上がるとき引越し。
核家族になり、学校という環境に入り、
色んなことが大きく変化した。
話し相手は、
祖父母やおじさんから母親になり、
親しい友達とも会えなくなった。

毎日のように学校帰りに母親に話しまくった。
だけど、小3でなにかを諦めてしまった。

特性が障害となり襲ってくる

特性を無視して、意欲なく何となくでも
学生のうちはやり過ごしていけた。

だけど、就職すると突如として
無視し続けた特性が障害となって、
降り注いできた。

自分の思考の特性も、行動特性も、
人との間の適応方法も分からず。
毎日のように非常事態頻発で、
上司・先輩も私も困惑・混乱。
4年間のうち、半分は地獄だった。

だけど、看護師育成重視の日赤で、
活気のある整形形成外科の病棟で、
(後に分かるが)日常ケア好きの特性で、
職場・職業・上司や仲間には恵まれていた。

だからか、必死だった当時を今振り返ると
かなり笑えるし、割と自信がある。
辛い時期も自分と向き合い乗り切れば、
思い出深い時期になるのかもしれない。

それでも、私は自分の発達障害なんていう
自分自身に問題意識を持ってはいなかった。
ただただ『不器用な人』と思っていたくらい。

社会からの逃避

私は看護師の4年間を経て、
結婚・出産を経験する。

それは、
働き始めて少しだけ自信がつき、
『自分らしく生きてみたい』と思い、
同じような状況にいる相手と出会い、
2人でボンヤリ夢を追いかけようとしていて、
始まったことだった。

今思えば、
2人とも自分を知りたいと必死だった。
それには、そのまま仕事を続けることも
大事だったのかもしれないけど、
特性無視のまま、社会にいられなくて、
逃げ出したようなものだった。

だから、家族は増えたけど、離婚した。

一人の人間である自分と、
『親』になることで現れる自分と、
全然違ってて。
その乖離にお互いついていけなかった。
まだまだ自分が一人の人間としても
成り立ててない同士だったんだから。

それでも、家族をつくって良かった。
逃げだったけど、もちろんやって良かった。
あの時逃げたお陰で、気づけたことも
あのときの選択で得られたものも山ほどある。

子どもたちを見て気づくこと

私には3人の子供がいる。
三者三様で、ぜんぜん違う。
その違いが、より特性に合わせた子育ての
重要性を訴えかけてくる。

3人が教えてくれることって、
本当に多彩で、かけがえない。

またいつか書こうと思うのですけど、
私は子どもたちとの暮らしを
ずっと続けてこられたわけじゃない。

父方に預けていたことも
実家の祖父母に預けていたこともある。

今、ようやく3人共が一緒にいて。
祖父母や兄家族、知人にもお願いしながら、
たくさんの人の協力の元、
また子どもたちとの暮らしを再開している。

私自身が不安定にならないよう、
一人の時間も確保してもらいながら、
私らしく子育ても継続できるように
調整してもらっている。

そんな私だけど、
自分が見失っていた分も、
子どもたちにはそれぞれの特性を大切に
これからも生きていてほしいと願う。

自分自身を無視せず、
向き合えるように、
その時間を害さないように、
私は何ができるかを考えたい。





今日はここまで。
つづく








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