短編「少女アンドレ」 2017

 一たす一たす一は三。
 百たす百たす百は三百。
 同様に、花火をたくさん集めて火をつけたら、大きなおおきな花火ができるだろう……。そんな思い付きを実行に移したのは、川沿いに住む小学生四人組だった。
 夏休み最終日の、思い出づくりと称した夕方六時。人通りの少ない道に囲まれた小さな公園に集合した彼らは、空のラムネ瓶に市販の花火セット二袋分の火薬を詰めていった。指先に染み付く火薬の匂い。背中を伝ってゆく汗。徐々に高まってゆく期待と、笑い声。
 犬の散歩中にその様子を見かけたというおばさんは後に「砂遊びしてると思ったのよ」と語ったらしい。「それが、あんな……ねぇ、そんなことしてたなんて、思わないじゃないの普通は。そりゃあの時あたしが気付いて止めていればって、思わないわけじゃないけど」と。
 火薬で満たした瓶に、導火線代わりの枯葉を数枚、いれて。
 家の仏壇から持ち出したというチャッカマンで火をつけて。
 無邪気な少年たちは離れた植木の陰に隠れて、遠目にその経過を見守った。大きく美しい花火が上がると信じきって。自分たちが作ったものの正体も知らずに。
 やがて、枯葉が燃え尽きて。
 三。二。一。で、火薬に火が落ちる瞬間。

 ――――家までの近道である公園の敷地内に、夏期講習帰りの私が足を踏み入れた。

 ガラスの破裂する音や、子供の声を聞いた記憶はない。
 覚えているのは二つ。
 無数の針に全身を刺されたような細かい痛みと、中でも唯一、焼けつくように痛んだ右の眼球の温度だ。


 始業式に出席し損ねた私が友人たちと夏休み越しの再会を果たしたのは、九月の二週目の土曜日。通学路から少し外れた商店街の中にあるファミレスでのことだった。午前授業を終えてすぐ駆けつけてくれた繭奈は、店に入ってくるなり周りの目を気にしながら私のいるテーブルに小走りで寄ってきて、私の向かいに座った。
「シュンちゃん、久しぶり……」
 返事の代わりに青いジャンパーを差し出すと、繭奈は素早くそれを羽織りチャックをジャッと勢いよく閉めた。彼女の制服はすっぽりと隠れて、それでもなお周囲を気にする彼女の様子は小学校の理科室で飼われていた臆病な十姉妹を彷彿とさせた。高二にもなって校則を気にする彼女は絶滅危惧種だと思う。四人用の席を二人で占領する形になっているが、約束ではあともう一人、倫子という友人が来るはずだった。
 手始めにドリンクバーを二人分注文すると、繭奈はオレンジジュースを私の分を含め二つ、グラスに取ってきてくれた。真面目な顔をしてジュースを一口啜って、
「ニュースを、見たよ。新聞も」
 一切の雑談もなくそう切り出してくるのが、繭奈らしいなと私は思った。俯いた頭の角度から、彼女の怒りが重いことが見て取れる。これも、正義感が強くて友人想いの繭奈らしい反応だった。私の右目のことはすでに学年中に知れ渡っているということも分かった。溜め息を押し殺して、軽い口調で「そっかー」と返す。
「最低だよね、犯人……逃げたなんて」
 そんなことまで知られているのか、と私はこちらに向いた繭奈のつむじをまじまじと見つめてしまう。
 そうなのである。
 自作の『花火』が小爆発を起こし、通行人たる私に怪我を負わせたらしいと認めた直後、例の小学生たち――繭奈の言うところの、犯人――はまず、迷わず、逃げたのだそうだ。地面に倒れた私は激痛で訳が分からなくなりながらも母の携帯に電話をし、駆けつけてくれた母は取り乱しすぎてなぜが先に警察を呼び、それから119番を押した。
 だから救急車で運ばれたのは負傷してから約一時間後。
 治療の遅れた右目は光を失った。
「右だけでよかったって思うよー。心からね」
 つとめて平静に答えて、私はグラスを掴もうとした。しかし距離感を間違えて、人差し指が結露したグラスの表面を撫でただけになってしまう。誤魔化すように、テーブルの上でゆるく拳を握る。右目を失い視界が奥行きを無くしてから、ふとした時に、こうして届くことを疑わなかった指先が空を切ることがあった。それは少しだけ、けれど確実に私の心に傷をつける。
「だけ、で済むものじゃないよ……」
 呆れの混じった繭奈の声と同時に、鞄の中で私のスマホが震えた。明るくなった画面を覗き込めばそこに表示されているのは、倫子からの〈あと十分。ドリア〉というシンプルなメッセージだった。言われた通りメニュー表から適当に選んだミートソースドリアを注文しておいてやる。これで、倫子が到着する頃にはドリアも来るという寸法だ。
 やがてドリアよりも先にファミレスに到着した倫子は、後ろにもう一人、約束にはいなかった同級生を連れて来ていた。そのことに言及する前に、彼女は私をこう呼んだ。
「ようアンドレ」
「は? ……ベルばら?」
「倫子、そういう冗談言うのどうかと思うよ」 
 繭奈に厳しい声で言われてもどこ吹く風、倫子は気分良さそうにで私の隣に腰掛ける。彼女は古き良き少女漫画を愛していて、中でもお気に入りなのが、かの高名な少女漫画『ベルサイユのばら』略して、ベルばら、なのである。そこに登場する青年アンドレは、悪党討伐の最中に左目を負傷し失明するキャラクターだった。
「アンドレは左目でしょっ。私は右だよ」 
「別に気にしねー」
「気にしろよ。……さっきから立ちっぱなしの、西野さんのこともさ」
 自分の名前が出た途端、倫子が連れて来た同級生はびくんと肩を震わせて、長い髪をブワッと波打たせながら慌ただしくお辞儀をした。同級生なのに。
 彼女は、クラスは違えど私と同じ美術部員の、西野である。
「とりあえずまぁ座りなよ」
 促すと、西野は繭奈の隣にかなりのスペースを空けて腰掛けた。制服姿の三人に囲まれた私服の私。今教師に見つかったとして、私は叱責の対象になるのだろうか。
「副部長、さん」
 という西野の小さな呼びかけを、ドリアを届けに来た店員さんが遮った。今日はシーフードの気分だったのに! と悲壮な声を出す倫子を無視して、西野の言葉の続きを目で促す。それにしても、副部長さんって。どんな呼び方だよ。
「コン、クールの、結果が」
「えっなに? コンクール?」
「村井さん、佳作、だったよ」
「……。あ。あれか」
 今年の五月に美術部全員で参加した県の学生絵画コンクール、それに私の絵が入選したというのだ。あー、と低い声を漏らす。端にも棒にもかからず、という結果よりはマシだけど。あれは自信作だった。優秀賞くらいには入ると思っていた。ちくしょう。
「西野さんは?」
 礼儀で尋ねておくと、西野はゆるく首を横に振った。
「あたしは全然」
「へえ……良いの描いてたのにね」
 校庭の葉桜を丹念に描写した彼女の油絵を思い出しながら言った。しかし私の評価には興味がなかったようで、相槌も打たないまま、「あと」と西野は少し身を乗り出してくる。
「右目のことで」
 直球な言葉に、面食らった。ちらりと目をやると繭奈の顔が引き攣っていた。倫子でさえ、口に運びかけていたスプーンを止めている。けれど西野は私たちの動揺には気付かないらしく、
「絵は?」
 それだけ尋ねられ、私は首を傾げる。しかしすぐに彼女の言わんとしていることが分かった。西野は数日前の私と同じことを知りたがっているのだ。
 片目で絵は描けるのかと。
「西野さんって意外と大胆なんだねぇ」
 口を挟んできた繭奈は胸元でウェーブのかかった毛先をいじっている。声は柔らかいが、それは苛ついている時の彼女の癖だった。
「それ、だいぶデリケートな質問だと思うけど」
「ご、めんなさい」
 西野が萎縮して猫背になると、長髪がテーブルに垂れて顔がすっかり影に入る。真横にいる繭奈にはただの黒い塊にしか見えていないだろう。
 高一の頃から親しい私と繭奈と倫子、対して西野はこの中の誰とも親しくない。部活が同じの私さえ、事務連絡しか交わして来なかったくらいだ。私はどうフォローを入れていいか分からなかったので、「そんなに怒るなって」と「何だろね、この子?」というメッセージを込めて繭奈に向かって肩をすくめてみせた。
 ピンポーン、と店内に電子音が響く。倫子がテーブルの呼び出しホンを押したのだ。気分じゃ無いと文句を垂れていたミートソースドリアはすでに半分無くなっていた。
 繭奈がまた倫子を睨むけれど、倫子はすっとぼけた顔で返す。
「ん? どうしたの、お腹空いてるっしょ?」
 すぐにやって来た店員さんに倫子が自分と西野のドリンクバー、そしてフライドポテトと軟骨唐揚げを追加注文した。以上でよろしいですかと尋ねてくる店員さんの声に被せて、「何か決めなよ」と倫子が西野にメニュー表を差し出す。その後の西野の慌てぶりを見ていたら、無性に笑えてきた。私は込み上げてくる笑いを口端から少しずつ逃しながら、氷が溶けて薄くなったオレンジジュースを一気に飲み干した。


 三時間ほどファミレスに入り浸った後、一人だけ方向が違う私は三人とファミレスの前で別れた。繭奈の「送っていこうか?」という申し出は断った。繭奈はいつも通り優しくて、倫子はいつも通りふざけてて、西野は、天然だった。だっておかしいでしょ、大して仲良くもない同級生の怪我を心配してファミレスに来ちゃうなんて。おっもしろい子だなぁと嫌な気はしなかった。
 家に帰ると母さんはリビングで電話をしているようだったので、ただいまを言わずに二階の自分の部屋に向かった。すると夕方過ぎの薄暗い廊下で、チャララーンラーンという耳障りな音を響かている弟と鉢合わせた。手元には一世代古いゲーム機。分厚い眼鏡をかけている顔が、小さな液晶画面にぼうっと青白く照らされている。
 しっかり避けたつもりだったのに、すれ違いざま右肩がぶつかった。無言で通り過ぎようとする弟に、
「春介」
「なんだよ」
 ゲーム画面からのっそりと顔を上げて、春介が振り返った。天然パーマの長い前髪と眼鏡の下から、隈の目立つ両目が睨んでくる。妖怪みたいだ。きもちわるい……。
「ぶつかったでしょ今。謝ってよ」
「そんなのオレだけのせいにすんなし」
「私、片方見えないんだから、そっちが気をつけてよ!」
「あそっか、すまん」
 案外あっさりと謝罪を口にして、春介は前に向き直る。
 しかし「あれ?」と首を傾げ、またすぐこちらを振り返って、こう言った。
「オメーが見えないの、右だっけ、左だっけ?」

  
 週が明けて、月曜日の朝。久しぶりの教室は残夏の陽光に照らされて、薄汚れているはずの壁も床も机も、鮮やかな色をしていた。つまらない紺色のスカートも今は星のない夜空に見える。つまり私は、久しぶりの学校にえらく興奮していたのだった。
 クラスメイトたちは皆揃って「大変だったね」の一言だけを捧げてきた。高校二年生にもなると、他人の悲劇を程々に嗜むことに長けてくるのだろう。それで十分だった。同情されるのは御免だし。
 姉が大怪我をして入院までしたにも関わらず、失明したのがどちらの目かすら覚えていなかった弟のクソっぷりを語っている最中、繭奈が大きな声で私を呼んだ。周囲の注目を集めておきながら、どうしても二人だけがいいと言う彼女についていくと、廊下の隅で小さな包みを渡された。婚約指輪でも出てきそうな小さな立方体の包み。促され、可愛い包装をその場で剥がすと中から出てきたのはなんとびっくり、お高そうな目薬だった。綺麗な瑠璃色をしたひし形の容器の中で薬液が波打っている。
「シュンちゃんみたいに片目失明した人って、見えてる方の目がすごく疲れるって、どこかで聞いたから……だから、よかったらこれ、使って?」
「まっ、繭奈ぁ」
 どかーんと感激して、私はその場でいつもやるように繭奈に抱きついた。繭奈の身体はふかふかで良い香りがして、お母さんに抱かれている赤ん坊はいつもこんな気分なのかなと思う。
 一限の古典が始まってすぐ、試しに一滴、左目に薬液を落とした。じゅわっ、とソーダみたいに眼球の奥に沁みて、痛みに似たその感覚に思わず「ひゃ」と小さく声を上げると、前の席に座る倫子が振り返ってきた。目が合って、
「なに倫子?」
「呼ばれた気がした」
「呼んでねーよ。目薬差しただけ」
「ほーん」
「そう見てこれ、さっき繭奈にもらったの。いいでしょー」
「……ほーん」
 私の差し出した目薬をまじまじ見つめて、倫子は妙な顔をした。苛ついたように、呆れたように、倫子の瞼が痙攣したのが彼女の眼鏡のレンズ越しに見えた。
「それ、あんま人に言わない方が良いんでない?」
「は? なんでよ」
「だってさ……ま、いいや」
 なんじゃそりゃ、と思いながら、私はその後もクラスメイトたちに繭奈に目薬をもらったことを吹聴して回った。見返りを求めないのが本当の愛だとか馬鹿なことを人は言うけど、優しさは広めていくべきだ。もったいないし、私も受け取った優しさを自慢したいし。

 それから……
 二週間。
 片目だけで学校に通ってみた感想は「眠くなる」だった。
 夏休み明けで、学校に来るのが久しぶりなせいか視界がのっぺりしているのが顕著に感じられて、目の前にある景色がどこか現実のものと思えないのだ。だからだろうか。授業中、よく意図せぬ居眠りをした。体育のバスケは、さすがにこの視界で参加するのはまずいだろうと体育館の隅で見学していたら、やはり寝た。試しに授業後パスを回してもらうと、見事に前頭部にボールを命中させた。
 景色の違和感も家の中で感じていたものよりずいぶん大きく、そこで初めて焦った。
 ちょっとまずいことになったかもしれない、と。

 十月に入って眼鏡を買い換えた。
 コンタクトを覚えてから眼鏡なんてダサくてほとんど使っていなかったのだけれど、目が疲れた時にすぐ外せるようにと考えて渋々買いに行った。左目を失明してから、疲れが原因なのか右目の視力がガクンと下がってしまったこともある。この先またすぐ悪くなるかも知れないから、コンタクトのまとめ買いができなくなったのだ。フレームの安いシンプルなものの中から自分の顔に合う眼鏡を探すのはずいぶん苦労した。
「言う割に似合わないの選んできたなぁ」
 隣を歩いていた倫子が私のぼやきをバッサリ切り捨てた。ふくらはぎを蹴飛ばそうとしたのに俊敏なステップで避けられた。低評価を受けた赤い細縁のメガネを指の腹で押し上げ、
「ちくしょうっ」
 私が舌打ちをすると、倫子は得意げに歯を見せて笑った。奴はそのずんぐりした体型と気怠げな瞳に似合わず、優秀な剣道部員なのだった。
「そーいやこの前商店街で、あんたの弟を見かけたよ」
「えっ。春介?」
「友達と一緒にレンタルショップ入ってった」 
「……見間違いじゃないの」
「そお? ほら、ぶっといフレームの黒眼鏡でさ、クルクルの天パで、学ランで、チビでひょろっちくて。絶対そうだと思ったんだけど」
 倫子があげるその特徴は、確かに全て春介に合致していた。しかしそれがうちの弟でないことは確かだった。見間違いだよ。繰り返そうかと思って、やめた。
「髪のクルクル加減で言ったら、弟の方がよっぽどアンドレだよな」
 倫子が私の髪を眺めて言う。私と春介では、髪質も背の伸びも何もかもが真逆だ。姉弟で唯一似ているのは人を睨む時の目だと母は言う。目尻の角度さえ異なっているはずなのに。
 私は弟が好きではない。嫌悪している、というのが一番当たっているかもしれない。あいつは意味不明で、気味が悪い。ここのところ特に……。
「でもさ、あんたの弟、姉貴の状態を把握してないのは家族としてマズいよね。この先、もっと大変になるんだし」
「そうねー」答えてから、「……えっ、何?」私は顔を上げた。
「これから大変になるって、何が?」
 へえ? と倫子は眉を跳ねさせた。
「だって、左目も見えなくなるでしょ、そのうち」
「はぁ?」
 思うと同時に声にも出た。突飛な発言に頭がこんがらがる。なんでそうなる?
 あ、そうか。と、案外すぐに思い当たった。
 ベルばらで右目を負傷・失明する青年アンドレ。彼は最終的に、酷使した左目の視力をも失ってしまうのだ。
 思わず吹き出す。バーカ、と笑う。漫画に影響されすぎだ。
「視力が落ちただけで、完全に失明なんてしないよ、現実では。第一、」
 両目失明なんてしたら、私生きていけないよ。
 言葉の続きを飲み込む。倫子の顔にまざまざと浮かぶ、失望を認めたからだった。
「なあんだ、そうなの?」
 倫子の声から熱が消える。
「アンドレじゃないじゃん。――――」
「……は、なんて?」
 耳を疑い、聞き返す。聞き返すまでもなく鼓膜はきちんとこいつの一言一句を逃さず拾っていたのだけれど、それでも、立ち止まって、倫子の肩を強く引いた。
「何て言った今。え? もう一度言ってみろよ!」
「は? 春月、何キレてんの?」
 間抜けた声。答えずにいると、倫子は何事もなかったかのように前に向き直って歩き出した。
 信じられなかった。信じたくなかった。
 私が、彼女が好きな漫画のキャラクターとは違うと知った時。残った左目を失わないと知った時。
「つまんねー」
 倫子はそう言ったのだ。

 
 私はそれ以来倫子に対してどうしようもない敵意を抱くようになってしまい、不穏な空気を察知したらしい周囲から何を言われようと「放っておいて」を繰り返した。倫子本人は、鈍さゆえか面倒を嫌っているのか、もしくは本当に『つまんねー』私に興味をなくしたのか、次第に話しかけてこなくなった。
「倫子が何か嫌なこと言ったんでしょう。あの子鈍いから、シュンちゃんから教えてあげないと反省すらしないよ。それでいいの」
 繭奈はそう言うが、私は反省や謝罪など望んでいなかった。ただ、もし私が両目を失明する予定だったのなら、あいつは手を叩いて面白がったのだろうかと。そう思ったらもう関わりを持ちたくなくなっただけ。仲直りしなよ、と言われても、もうそういう次元の話ではないのだ。
 それより問題は、なんと、あの繭奈だった。あの、って何だよと思う。でも繭奈というのはいつでも公平で正しくて、同い年だけど私たちのお姉さんのような存在だったから。
 始まりは十月二週目の、木曜日。倫子とのことがあった数日前。
 四限の現国の途中、「だるい。寝よう」という軽薄さで机に突っ伏した。いつものことだった。微睡んでいるうちにチャイムがなり、さて美術部の連中と昼食を食うかと立ち上がった時、
「シュンちゃん」
 繭奈に、捕まったのだ。
「寝てたでしょう」
「んー、あー、つい。だるくて」
 あははッ、と笑いあった。繭奈はどこか甘ったるい瞳をしていた。
「あの評論、字が細かくて疲れるよね」
「ねー、ははは」
「なら読んであげるよ」
「はは、……はぁ?」
 繭奈の両手がグッと肩に乗ってきて、たった今立ち上がったばかりの席に座らされた。彼女は携えていた小バッグから現国の教科書を取り出して、私の前方の、主が昼食のために移動して空になった席に腰掛けた。有無を言わさぬ優しい笑顔で、
「目で追うより、耳で聞いた方が楽でしょう? わたしが今から声に出して読むから、シュンちゃんは聞いてて」
「いや、えっと……ご飯は?」
「うん、食べててもいいよ」
 私は、言われた通り、自分の弁当を広げた。プチトマトや唐揚げや白米を腹に収めていく私の正面で、繭奈がはっきりと、聞き取りやすく、周りに聞こえるほど大きく、教科書を声に出して読み進める。わけがわからない、と思ったし、繭奈の声を聞きつけたクラスメイトたちの視線がチクチクと刺さって気まずかった。
 私が食事を終える頃、繭奈も全文を読み終えた。
「内容分かった?」
「……難しいね」
 曖昧に笑って答えた。本当はまともに聞いちゃいなかった。
「なら解説するよ」
 そう言って今度はノートを取り出し、繭奈は授業内容の要約を語り出した。
「また授業ついていけなかったら、あたしに言って?」
「あの、繭奈」
 子供に愛を囁くような優しい声で繭奈が言う。
「テストも近いし」
「待って、私……」
「大丈夫。わたし、できるだけ力になるから」
 教科書くらい自分で読めるよ。
 言葉の続きは、繭奈の聖母のような笑みにかき消された。
 ……あれを普通は善意って呼ぶのか。
 そう気付いたのは、繭奈の特別授業で全潰れした昼休みの後、五限の日本史が始まってからだった。
 繭奈の特別授業はその一回に留まらず、それ以来も、私が授業中ぼうっとしていた、という判断が下されただけで開講された。断ろうとすると繭奈は怒ったような……不機嫌な、顔をするので、仕方なく付き合った。さらには移動教室の時は必ず私の横に付いて、
「段差気をつけて」
「右側、人が通るよ」
 なんて指示を出してくるようになった。それをクラスメイトに見られる度に、恥ずかしくてたまらなかった。誰もが、優しい! と感激する繭奈の、それ。おせっかい。ありがた迷惑。でも、はねのけでもしたら私が悪者だ。だから素直に享受するほかないのだ。「繭奈ちゃん優しいねー」そんなことないよ、わたしはただ、シュンちゃんが困ってるから、手伝いたいの――――いつからか、そう答える繭奈の瞳は熱に浮かされたようにどろりとしている。

 ある小雨の降る朝、音楽室への移動で階段を降りる時、一人で歩いていた倫子を追い越した。
「シュンちゃん、階段まだあるよ。気をつけて」
 繭奈の声を倫子も聞いただろう。踊り場で振り返ると、倫子と目が合った。
 その一瞬。倫子は私に向かって軽く肩をすくめた。
 くだらねえことやらされてんね、片目が見えない程度でさ。
 そう言われたようだった。
 ……本当だよね。馬鹿みたい。
 私が苦笑を返した時、倫子はもう私を見ていなかった。一段飛ばしで、私たちを追い越して行った。

   
 そんな日々ばかりが過ぎて、ある放課後、思い出したように部室である美術室に寄ると、西野がたった一人で静物デッサンをしていた。小学生時代に絵画教室に通っていただけの私と違って、西野はうちの美術部で唯一、美大進学を目指す部員だ。それでもまさか、自主的に絵を描きにきているとは思わなかった。
 私に気付いた西野が立ち上がると、膝がイーゼルにぶつかって、鉛筆が数本床に落ちた。顔はやはり、髪に隠れて見えなかった。
「お帰り、なさい」
「うん、ただいま。……ありがとう」
 学校生活に慣れるまでは、と遠ざかっていた美術部に、私は今、戻ってきたのだ。西野の言葉がなければきっと何の感慨も浮かばなかった。
 西野が向かっていたモチーフは、自分で組んだものなのだろう。低いテーブルに柄物のテーブルクロスが掛けられ、その上には花瓶やビール瓶など、ありったけのガラス器が並んでいる。全て準備室にあるものだ。
「一緒に、どうでっ、すか」
「え?」
「デッサン……今、ガラスの練習中で」
「ああ、そうなんだ」
 せっかく来たし、人もいるし、リハビリ程度に描いて行ってもいいかもしれない。そう思って、モチーフに何の気なしに近付いて、上から覗き込む。と。
 視点が、一点に、固定された。
 背の高い器たちの中心にちょこんと、小ぶりなガラス瓶が隠れていた。淡い青緑色をしたそれ。一部分が極端にくびれ、中には、小さな、ガラス玉が。
 私は後ずさり、その凶器を睨みながら首を横に振った。それは、中に火薬を詰めて火を落とすと爆発して砕け散って私の右目を奪った。普通の生活を奪った。健全な友情を奪った。握った拳が震えている。全身に伝わっていく。これが全て奪っていった。全部全部、大切だったのに! 
 許さない。
「描かない」
 こんなもの、
「描けないッ!」
 右目から、何かが落ちた。涙、だった。世界を映すことを放棄したくせに、涙を流す機能は失っていないらしい。悲しくはなかった、ただ、腹が立ってしょうがなかった。さらに泣けてきた。……ちくしょう。
 ちくしょう!
 西野がゆっくり歩み寄ってきて、遠慮がちに私の背中に触れた。


 帰り道、西野は私の右側を歩いた。見えづらい側をさりげなく庇ってくれているのだと気付いた時、抑えていたものが爆発した。この二ヶ月間、親友たちにされたことを――――相手を乱暴に責め立てたり、逆に庇うようなことを言ったりしながら――――説明した。西野は最後まで無言だった。そして私が全てを吐き出し切った後に、
「大変、だったね」
 その一言は、他の人たちのそれとは違う、私の感情の濁流を全て吸い込んでくれる柔らかな土のようだった。今までただ暗い子だと思っていたことを心の中で詫びた。もっと早く西野と話をしてみればよかった。
「村井さん、って、美大、目指してないんだっけ」
「ちょっとは考えてたけど、この目じゃあね」
「なら、どうするの」
 西野にしてはずいぶん踏み込んだことを聞いてくる。この子は少し、人との距離を詰め方が下手なのかもしれない。それでもあの二人よりはマシだった。
 地学にもまあまあ興味がある、と答えると、
「すごいね」
 と、掠れた返事が右側から聞こえた。
「あたし、美術以外、まともにできないから」
 卑屈な言葉の裏に、誇らしげな響きが宿っているのが聞いて取れた。私はどうしようもなく、悲しくなった。なんだか昔の……と言ってもたった二ヶ月前の……自分を見ている気になったのだ。
「そんなふうに思っちゃ駄目だよ」
 満足しては駄目だ。信じては駄目だ。自分が持っている、と思っている、何もかも。この先何があるか、分からないのだから。私のように、全てに裏切られるかもしれない。それは突然で、決して修復ができないものだから。
「他にも絶対あるよ。西野さんができること……」
 西野が立ち止まる気配がした。振り返ると、彼女の顔はいつも通り髪に隠れてよく見えなかった。
 その、幽鬼のような立ち姿。
「それを、見つけて」
 かろうじて形が確認できる下唇が、小さく動く。
「あたしに、描くのを止めろって言いたいの」
「えっ?」
「偉そうなこと言わないで」
 俯きがちの猫背が、ゆっくりと伸びていく。珍しく西野と目が合う。あれ、と思う。この子は本当に、あの控えめな西野だろうか。だとして、こんな表情をするだろうか。
 こんな、
「あなたなんて、」
 こんな嗜虐的な。
「もうすぐ描けなくなるくせに!」


 のっぺりとした景色の中を、瀕死の動物のような足取りで進む。かかとを引きずる自分の足音。木々の揺れる音。川のせせらぎ。肌を撫でる風のぬるさ。アスファルトの固さ。制服のスカートの生地のざらつき。こんなに鮮明に感じたことが今まであっただろうか。なのに、今、自分がここにある実感が掴めない。まるで湧いてこない。私の心は砕け散って、曇天の夕暮れ空に霧散してしまったのだ。きっと。
『倫子ちゃんから聞いたよ。あの日。ファミレスに行く途中で』
 いつもより数段高かった西野の声。
『左も、見えなくなるんでしょ。もうすぐ』
 不意に足がもつれて、何を思う間もなく、転んだ。両膝がコンクリートの歩道に強く擦り付けられる。どこもかしこも、指すら重くて、そのまましばらく、歩道に身体を預ける。
 耳の奥でハウリングする西野の声。
『村井さんのこと、ずっと嫌だった。自信に溢れてて、見てると馬鹿にされてるみたいで、ずっと、大嫌いだったの……』 
 ジンジンと痛む膝に力を込めて、立ち上がる。見ると、歩道に敷き詰められた煉瓦型のタイルが、一つだけわずかに浮き上がっていた。そこに爪先を引っ掛けてしまったらしい。
 ふざけるな。
 ふざけるな……。どいつもこいつも、私を……。
 ちくしょう、という叫びは声にならなかった。


 道の先に自宅の塀が見えてきた時、「申し訳ありませんっ!」と、叫ぶような女の人の声が聞こえた。
 塀の陰から覗くと、玄関の前に蹲る人影があった。一瞬母さんに見えてぎょっとしたが、すぐに違うと知れた。女の人は横に見知らぬ男の子を連れていて、私の母はというと、その人の正面で仁王立っていたのだ。
「申し訳ありません!」
 ひび割れ、枯れた声。女の人は母に頭を下げている。女の人の腕にしがみつきながら男の子が泣いている。その悲壮で不可解な光景に、母は憤りを込めた声を容赦なく被せていく。謝って済む問題じゃないんですよ、え? お分かりになります? ねえ、うちの娘に、どんな償いをなさるもりなんですか? 
 娘って、私のことだけど。
 目の前で行われていることが、私には何も理解できないら。でも、母さんどうしたの、って割り込んでいけるような空気でもなく。
 立ち尽くしていると、家の窓、隣の家との細い隙間に設置されたリビングの窓から、誰かが手招きしているのが見えた。ひらひら揺れているその細い手をぼうっと眺めていると、しびれを切らしたように、手の主がひょいと顔を覗かせた。
 春介だった。

 塀を伝って窓から家の中に入り、なおも聞こえてくる母さんの声から逃げるように二階に上がって、階段を登りきったところで突然、力つきた。へなへなと床に座り込む。
 頭上で「感謝しろ」と春介が言った。
「あのままじゃ家入れなかっただろ」
 答えずに壁にもたれかかる。そのまますぐに立ち去ると思っていた春介はしかし、憑かれたように喋り続けた。
「さっきの、オメーの右目潰した奴らの一人だよ。どうにか連絡先手に入れて呼び出したんだと。あの母さんがさぁ、珍しくオレにたくさん喋ってきたよ」
 はは、と春介が自嘲気味に笑う。
「あの日の夕方に、あのガキが駅前のスーパーで、花火二袋、一人で、買いに来てたって目撃情報があったんだと。パシリだったんだろうな、そのうえ全責任負わされて、哀れなガキ……」 
 ついさっき見た男の子の後ろ姿を思い出す。薄っぺらくて、気弱そうで。地面に額を擦り付ける母親の腕を泣きながら揺さぶっていた。
 私は被害者だ。加害者を哀れんでやる必要はない。けれど……。
 無言を貫く私に苛立ったのか、春介が下手くそな舌打ちをした。
「てか、何その両膝。血、出てねえ?」
「……転んだんだよ、ちくしょうッ!」
 春介の青白い足に向かって叫ぶと、薄暗い廊下に浮かび上がっていた爪先が分かりやすく強張った。びびってやがる! 口だけ達者な小さい男。そんな男を感情の掃き溜めにする私。
 私自身も掃き溜めだった。自己満足や娯楽、不満、劣等感を押し付けられて、消費された。見下され、軽んじられた。片目が見えなくなったところで、私は可哀想にも弱者にもならないはずだったのに。
「何でもないところで! ただの、歩道の段差で! ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう! 何で見えなかったのよ!」
「姉貴」
「な、何で、片目の方がよく見えるの! 何で今まで気付かなかったんだよ! みんな最低! 自分勝手で! 大ッ嫌い!」
 本人たちにではなく、こんな家の廊下で、無関係な弟に対してお門違いな憎悪を撒き散らしている自分が、情けなくてたまらなかった。私も、奴らも、同類だ。最低だ。大嫌いだ。
 昂った私の喚き声を浴びた春介は、けれど、
「オメーの言ってること、訳わからん」
 いつもと変わらぬ冷めた返事。そして長い溜め息と沈黙。
 春介の右足が、突然壁を蹴り上げた。
 ドン! という鈍い音と「痛ってえ!」という悲鳴が重なる。それから倒れるように蹲り、壁にぶつけた右足をさすりだす。何こいつ、馬鹿?
「……どうせ元から、何も見えてねーよ」
 独り言のように、春介が吐き捨てる。
「両目も片目も関係あるかよ。自惚れんな。元々、誰にも、何も見えてないんだよ。例え見えてたってなんも変わんねえよ。だから誰も、気付いてくれなくて、だから、オレは、……あああぁ、ちっくしょう!」 
 今度は拳で床を殴る。ゴン! と「痛ってえ!」がまた重なる。ちくしょう、と勢いの削げた口調で姉弟揃った口癖を繰り返す。
「何だよ、クッソ、ちくしょう、殴る方も痛いのかよ……」
「春介」
 肩を掴んでみると、その細さにぞっとした。嫌悪感。それでもこいつは弟だ。血で、繋がっている。他人のように突き放せない。
「あんたまさか、学校で何かあったの?」
「どうとでも思えよ」
 あっという間に自分の憎しみに興味をなくしたような顔になって、春介の頭がカクンと傾いた。
「母さんも父さんも、私も、あんたがずっと何も言わないから、困ってるんだよ。ちゃんと全部、説明してよ。ちゃんと解決して」
 項垂れる弟に、言い聞かせるように。
「ちゃんと、学校行きなさいよ!」
 途端に春介は私の手を振り払い、乱暴な動作で立ち上がった。大きな足音を立てて廊下の突き当たり、向かって左のドアに吸い込まれるように、あっけなく消えていく。カチャン、と鍵のかかる音がひどく小さく遠かった。あいつは今、これっきりどこかへ霧散してしまったのではないだろうか。そのドアをこじ開けて、弟の実在を確かめようか……。
 ­­­­­――――どうせ元から、何も見えてねーよ。
 春介。去年の春、学年が変わってすぐ部屋に篭り始めた弟。母さんがヒステリーを起こしても、父さんに殴られても、担任教師が家を訪れても、あれきり一度も、家から出ていない、私の弟……。
 ――――元々、誰にも、何も見えてないんだよ。
 母さんの怒鳴り声はまだ聞こえてくる。娘の右目を返して。返してよ。
 右目が戻ったってもう何の意味もないのに。
 使い物にならない両目を閉じる。乾いた眼球に目蓋の裏が張り付いてひりひりと痛んだ。無意識にポケットから目薬を取り出し、キャップを開ける。それが繭奈に貰ったものだと思い出して、衝動的に腕を振り上げ、床に叩きつけようとした。しかし寸でのところで思い止まって、手に握ったそれを見下ろす。
 片目で見る汚い世界も、両目で見ていた優しい世界も、同じ延長線上にある。本物も間違いも裏切りもなくて、ただ、見えていなかっただけ。これまでも、これからも、今も。
 ならいっそ、もう何も……。けれど……。
 途方に暮れた私は天井を仰ぎ、ぽとり、と薬液を左目に落とした。縋るように。眼球の裏に浸み込む冷たさを噛みしめて。深く。憎むように。


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