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「なぜ私はそんなに特別なのか? 」

この質問にどう答えますか? 私はといえば、”どう”答えるか、の前にしばらく凝固してしまいました。つまり、答えられなかったのです。想像してみてください。「私はとても特別な存在なの。どうしてかというとね……」なんて会話は日本で生まれ育った私にはそうそう投げかけられません。しかし、この質問はアメリカの小学生低学年に出されるごく一般的な宿題だというのです。

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9月、アメリカでは新学期が始まりました。私が住むオレゴン州のポートランド地区では、公立学校は完全にオンライン(通称リモート・ラーニング)。4歳のプリスクーラーであるうちの子は、暫定休園を選択しています。

3月からの休校はついに半年以上となり、私以外、英語の環境で暮らす娘は、それまで8割日本語だったのが、一気に英語が8割へと逆転しました。

おかあさん、これをThinkして showしてね。Laterに。

こんな話し言葉を、いちいち日本語に直すことさえも追いつかなくなっていた頃、娘の小さな変化(それは成長でもあるのだけど)が積み重なっては、動揺していた折に見つけたのが、この方のつぶやきだった。

どういうこと?! この一文を読んだ際、瞬時に湧き上がった感情だった。なぜなら私もきっと山口さん親子のようにするだろうから。

つぶやきの主、山口さんはこうまとめる。

「他人と比べる必要なんてなくて、あなたの存在自体が特別なんだよ」ということを、こうして幼少期から教え込まれることでアメリカ人のあの自己肯定感の高さは育まれているんだなぁ…と、凄く納得した

日本の典型に括られる家庭や教育で生まれ育ち、思いもよらずアメリカで子育てをすることになった私が、まさしく疑問に思っていたことがこのつぶやきに凝縮されていたのだった。

自信に満ち溢れ、失敗を失敗とさえ思わないあの子どもたちは、どうやったらそうなれるのか? 

慎み深さや謙遜を美徳とされる日本の文化を潜在部にまで刷り込まれて育った私のような日本人と、「自分のスタンダードは自分で決める」と当然のように言い切ってしまえる我がアメリカ人の夫。その間で、うちの娘にはその両方の美しさを知ってほしい、とも願っているが、そんな欲張りな方法は一体、どこにあるのだろう。

西洋と東洋では、そもそも"個"の捉え方が異なる?!

Congratulations Gym  !! 

例えば高校を卒業する子どもに向けて。定年退職したお父さんに向けて。フロントヤードに、または屋根前面に、上記のようなメッセージが横断幕やサインとして向けられていることが珍しくないアメリカ。彼らは対”社会”に向けて”個人”への激励や祝福をアピールする。家の中やコミュニティ内で済むことを、世界に向けて無作為にメッセージを放つ。私だったら「出しゃばりだな、とか、目立ちたがり屋だと思われたらやだなあ」などと、ぐるぐるいらぬ思考を巡らせてしまいそうなところを、彼らは全く気にしない。いいなあ、幸せだなあ、と思う一方で、やっぱり私には無理、と断固拒否する自分もいる。そんな違いを右往左往するうちに、そもそも、東洋と西洋で個人の認識が異なるのだとわかってたのである。

例を挙げると『木を見る西洋人森を見る東洋人〜思考の違いはいかにして生まれるか〜』(ダイヤモンド社)を解説したこのサイトでは、このように紹介しています。

西洋人は幼少の頃から、物事を単体で見るように教育されています。対象物がどのようなものかという特徴に注意を払うのです。例えば、「ズボンは長い、靴下は短い」という言い方をします。ズボンは靴下に比べて長いという言い方ではなく、そのもの単体を見てどのような特徴があるのかを見ているのです。
一方で東洋では“物事を連続的な「材」の総体として世界を見ている”と述べられています。「長ズボンは靴下と比べて長い」という見方をし、他の物とどのような関係性があるのかについて見ています。
つまり、東洋は人間であっても物事であっても、周りの関係性まで包括的に見ますが、西洋は人間でも物事でもそれがどんなものなのかを単体で分析的に見るという違いがあるということです。

西洋人は「個人」を単体で見て、「分析」「論理」によって自分というものを見出し、東洋人は「集団」「調和」から「個人」をあぶり出すように浮き上がらせている。つまり他者、他の物事との関係性があってこそ私=個が成り立つ。

ここまで読むと、山口さん(と呼ばせてもらう)が娘さんと一緒に考えた答えは”恥ずかしい”ものなんかではなく、東洋と西洋では、思想的に「個」または「物事」を認知する方法が異なったために生じた「違い」であり、その東洋的考え方もまた「個」であるようにも思えた。少なくとも、私は日本人としてアメリカで子育てしていく上で、この「違い」をどう娘に伝えていけるだろう、と少し楽しみにもなれたのである。

アメリカの公立小学校で教員になったばかりの日本人の友人もその違いに頷いていた。「自分とは何者か? 」小学生低学年のためのアイデンティティ教育の一環として、教員自らが、各自のアイデンティティを他者に語る訓練があったというのだ。アメリカ人の彼らが難なく流暢に自分を語る一方で、日本生まれ育ちの彼女は比較の中で己を模索する。でもそれこそが、私たちのアイデンティティなのかもしれない。

もちろん、だれかと比べたり、成果に振り回されながら自分を評価したり、定義づけるのは苦しいだけ。そんな文化、習慣からはそろそろ脱却したいと切に願う。しかし、他者との関係性、全体の中に自分があると捉えられる私たち東洋人は、「平和や調和、共生を生み出したいなら、自らがその存在になればいい」という風にも思考を切り替えられやすい。それを潜在的に知っているのが私たち東洋人のアイデンティティなのだろう。

Why are you so special?  今更そんなことを聞かれることもあまりないように思うが、万が一のときは、こんな風に答えよう。娘にも、少しずつ、ゆっくり伝えていこう、と冒頭のツイートを見かけた時よりはだいぶ緩やかになれている。

あなたは そのままで とてもスペシャルです。

あなたは 自分で自分を ご機嫌に ハッピーにする方法を知っています。

他者との関係を意識しながら なりたい自分になれるのです。

それが自分を みんなを ハッピーにするのです。

#エッセイ  #日米教育 #自己認識 #アメリカ子育て



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