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「わかる。ということ」花屋の向こう側

近年は、遠くに離れた場所のことでも瞬時に情報共有できるので、目や耳で得た情報だけで、人の気持ちまで知った気になる危うさがあります。

人は「相手をわかりたい」という欲求が高まると、どうしても身近な手がかりだけで、つじつま合わせをしようとします。相談を持ち掛けられたときは尚のこと、「わからない」という曖昧さに耐えきれず、不安になり、ときには後ろめたさを感じ、持ちあわせの知識や情報を当てはめて、性急に「わかった」にたどり着こうとしてしまう。

このように「知りたい・わかりたい・理解したい」という欲求が、相手の「わかってほしい」を乗り越えてしまうことは、あることです。しかしそんなときほど裏腹に、もとめる共感とはかけ離れてしまい、お互いに理解しあえないジレンマに苦しむことになります。

お伝えしたいのは、「理解」とは不完全なものだということです。どれだけ親身になったところで、相手と一体化することは、ありません。またそれは、相手が求めていることでもありません。

相手の痛みや苦しみを知ったとき、代わりたくても代われないとき、私たちはその無力に苦しみ悲しみを抱きます。けれどその共感こそ、見えずとも支えになっている。それで良しとするのです。

全てを知ろうとしないこと。むしろ理解とは、相手が必要とする時間や、今大切にしているその自由を、奪わないことだと思います。

このようになってほしいという願望をもたず、全てをわかろうとせず、見えなくても見つめて、待つことではないかと、私は思います。家族にも、スタッフにも、友人にも。今日もいちりんあなたにどうぞ。

プリムラ ジュリアン 花言葉「青春の喜びと悲しみ」

プリムラ ジュリアン

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