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切り絵【宙ぶらりん】

今週から、B型作業所の通所時間を増やすことが決まりました。
通い始めてそろそろ半年が経とうとしているのですが、この生活にもようやく慣れてきたかなと感じております。
前職では、フリーランスの働き方をしておりまして、雇用契約を結んだ経験がないのですが、こうして作業所で規則正しい時間に拘束された働き方を練習していると、私もいつか雇用される働き方が出来るのではないかと、少し心躍っている今日この頃でございます。

ほぼ無意識的にフリーランスの仕事を選び、それが当たり前と思って約13年やって参りましたが、ここにきて会社員になることができるかもしれないという可能性は、想像しておりませんでした。

発達障害の診断をもらって、障害をオープンにして働くことにしてから、前職のような今までの仕事は出来なくなりましたが、逆に今までは出来ないと思っていた新しい仕事の選択肢が出てきているような気がしております。

改めて、作業所のような仕事の練習ができる所があると、とても助かるなと日々思っております。
いきなり会社に入ると、新しい仕事を覚えるので精いっぱいで、自分が感じている些細な違和感とか、不快感とか、小さなストレスに向き合う余裕がなくて、仕事を一生懸命やってるうちに、いつの間にか体調が崩れてきたり、周囲の人のペースについていくのに必死になってしまいがちで、いつまで経ってもマイペースが作れないことが、結果体調の変動を生んでおりました。

多くの人は、順応する、適応することが上手で、最初は緊張があっても、ある程度慣れてくれば、マイペースに移行して適度に力を入れたり、抜いたりの塩梅に自然になっていくのだと思います。

最近、発達障害の方が、日常で気付いたことや小さな違和感などをメモしたノートを見せて頂くことがあったのですが、多くの人が考えていないような些細なことに不快感があったり、その人にしか分からない小さなストレスが細かく書かれてあって、その点は大変共感いたしました。

それは誰かに分かってほしくて書いているというよりは、自分でも自分の特性がよく分かっておらず、自分の感じているストレスのどこからどこまでが障害によるものなのか、分からないため、日々メモしているということなのですが、この特性は障害によるものだったんだと発見するほどに、対策ができて生活が楽になっていくことを実感しているというのも、よく分かりました。

私もそのメモの影響を受けて、先週くらいから感じたことや日常の出来事などをメモするようになりました。

私の場合は、自分が感じている違和感や不快感を、すべて胸の内にしまってしまう癖がありまして、見て見ぬフリをしていた気がするのですが、それをやめるためにも、感じたことを素直にメモしてこれからは残しておこうと思います。

私は仕事をしていた頃、勤務中に、お昼ごはんを食べたことがほぼございませんでした。
お昼休みを頂いても、ご飯を食べずに、仮眠をとったり、特に何をするでもない時間をただ持て余すだけの状態でした。
勤務時間中はご飯を取らないので、終わってから大量に食べるという生活をしていて、一時期は胃を荒らしたりしておりました。
仕事が夜遅くに終わった日は、夜中に食べ過ぎて、翌日の体調に響いたり、眠れなくなったりしていたこともございました。

午後はエネルギーが切れるし、体に良くないのは分かっていたのですが「なんとなくめんどくさい」という感覚しかなくて、それ以上考えたことはなかったのですが、最近になって、「なぜお昼を食べたくないのか」ということを考え始めました。

私は「自分が食べているところを見られる」のがとても苦手で、特に「食事中に会話をするのにはかなり抵抗がある」というのが、はっきりしました。
あと「何を食べているかを知られる」のが、非常に怖いという気持ちもありました。
外食をほぼすることがない私は、昔から人と一緒に食事をすることが恐怖だったり、ストレスだったりすることがあり、家で一人での食事は問題なく食べることが出来ます。

最近は会食恐怖症という言葉があるそうで、詳しくは分からないのですが「食べきれない」とか「残してしまうことが怖い」という人たちが、飲み会や食事会を恐れてしまうことがあるそうでございます。
それとは少し違うような気もしているのですが、お昼休みに他の人と一緒の空間で食事をとること、食事中に話すこと、食べているものを知られることにおいては、心臓をつかまれるようなヒヤッとした悪寒があったり、怖いと思ってしまっております。

自分が食べているところなんて、ほかの人は特に見ていないという気持ちもあるのですが、食べるのが非常に遅いというのもあり、一つの空間で自分以外の人は、続々と食べ終わってくつろいでいるのに、自分だけいつまでも食べている状態に、堪らなく焦りが出てきたりもいたします。

そんな苦痛を体験したくないからこそ、職場でのお昼ご飯をずっと避けてきたのだと思います。
どんなにお腹が減っても、体調が悪くなってもいいから、それでも「食べないこと」を選択してしまうほどの苦痛があるということを、自分自身が長年知らずにやって参りました。

作業所でも、一つの空間でみんなで食事をするというのは、変わらないのですが、これからは、体調をよく考えながら、お昼の時間に、自分が感じている不快感や思っていることを出来るだけ書き出していこうと思っております。

アレルギーではないのですが、体質的に食べれない食材や料理が多いので、外で買うことはせず、自分で作ったお弁当を持っていくのですが、自分の家以外の電子レンジを使うことに抵抗があることも分かり、温めなくてもおいしく食べれるように工夫するのも、大変だったりします。
でも、夏場は食中毒も心配になりすぎて、温めないと安心できないというのもあり、ここまでいくと、ジレンマが発生し、こういった些細なストレスがが日常で溢れかえっており、常に頭の中はパンパンでございます。

一つ一つ丁寧に解消していくことが出来るものもあるのですが、もう「考えるのがめんどくさい」から「食べなくていいや」と、すべて投げてしまう選択をしてしまっていることが、悪い習慣の始まりだったり、それを自分で気づけなかったりすることは多いと思います。

白黒思考というのも最近調べたのですが、いろいろ丁寧に考えるのがめんどくさいから、「食べる」なら全部我慢して食べるし、それが嫌なら「食べない」という二択に、無意識的にしてしまっていることが多いと感じました。
全部我慢するか、全くやらないか、という二択にしてしまうのは、怖いことで、自分の頭で考えるとそうなってしまうのなら、いろんな人に意見を聞いて、対策法を一緒に考えてもらうことが助けになるような気がしております。

どうしたらお昼ご飯を、ストレス少なく食べることが出来るようになるか、という問題は、自分の感じている気持ちの、どこが特性や障害に当たる部分なのか、恐怖症というほどではないけど、嫌だと感じてしまうのは、何によるものなのか、自分でも分析しながら、自分だけでは分からないことを周囲の人にも考えてもらったりしております。
「そんな些細なことで悩んでるの?」と思う人もいると思いますが、些細な悩みは、自身の適応力によって自然に無くなっているのが普通のことかもしれないとも思います。
些細であってもいつまでも解消されない悩みは、少なからず対策が必要なので、それは障害に近いと言えるのかもしれません。

私の訪問看護師さんは、発達障害の人はグレーを考えられない「白黒思考」な人が多いと言っていました。
私もその傾向があるのかもしれません。
そんな発達障害がグレーゾーンと呼ばれたりすることもあって、なんだか複雑で分かりにくいと思ったりもいたします。

時計を見てしまうと、1分1秒が気になって時間をずっと気にしてしまうから、そんな日々に疲れて、時計を見えなくして生活してみたけど、それはそれで社会は時間で動いているから、生活に不都合が出てきて、また時計を見る生活にしたら、気になってしょうがないとか、そんなループを繰り返す生活が当たり前で、そんな積み重ねが、ある日突然病気を発症させたりすることがあったりいたします。
似たような経験がありまして、白黒思考と言えばそんなイメージが浮かびましたので、今回は、「時計の数字を雑に消している」感じの絵を描いてみました。

時計を見えなくしたり、数字を消すという極端なことをせずに、「適度な雑さ」や「妥協」が、白黒からグレーな考え方を生んでくれるような気がしております。

数字を全部完璧に消そうと思ったけど、やっているうちに、どうでもよくなって、「まあこんなもんでいいか」という塩梅だったり、中途半端で終わらせるようなことも、時には大切なのだと思います。

そもそも時計に問題があるわけではなく、気持ちのゆとりがいつでも必要だったり、思い込みや考え方を修正していくことで、生活が楽になることもたくさんあると今は思います。

「我慢しなきゃ」とか「ちゃんとやらなきゃ」という気持ちが強いうちは、完璧主義が顔を出していて、自分が中途半端な宙ぶらりんの生活をすることを許せなくなっていたりするので、「やるかやらないか」だけではなく、妥協案や別の道も幅広くあって、グレーな考え方もあるんだということを、いつでも思い出せるようにしておかないといけないと思いました。

また次も見て頂けましたら、幸いでございます。

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