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名誉男性と性自認? ――トランスジェンダーの議論をめぐって

「#トランス女性は女性です」というハッシュタグが、Twitter上で議論を呼んでいる。
最近のその議論が過熱したきっかけは、次のJ・K・ローリング氏のツイートだった。

「月経のある人」というカテゴリには、いわゆるトランスジェンダー女性は含まれない。
これが差別的であるとして、このツイートは炎上した。

「トランス女性は性自認が女性なのだから、女性として認めるべきだ」という言説、そして一部には「性自認が女性であるトランス女性は、女性用トイレや女湯に入ることが認められるべきだ」といった主張がみられるようになった。
それに反対するフェミニストらはTERF(Trans-Exclusionary Radical Feminist: トランス排除的ラディカルフェミニスト)と呼ばれ、差別主義者であるとの批判がなされている(※1)。

ここでまず、用語について整理しておきたい。
森山(2017)によると、LGBTと総称されるセクシュアルマイノリティは、『普通』の性を生きろという圧力によって傷つく人々、と言い換えることができる。
このLGBTのうちの”T”が、トランスジェンダーだ。
性自認に身体を適合させることを望むトランスセクシュアル(GID患者を含む)、異性装をすることに重きを置くトランスヴェスタイト、そして外科手術をしないが性自認に合った生き方を望む(狭義の)トランスジェンダー。
この三者を包括する形で、(広義の)トランスジェンダーという言葉が用いられるようになった。

このように、トランスジェンダーという一つの言葉は、狭義のものと包括的なものの二つに分かれる。
それにも関わらず、Twitter上で議論されている「#トランス女性は女性です」というハッシュタグでは、それらが都合よくまぜこぜに議論されているとしか思えない。
たとえば、TERFと呼ばれる人たちが「性自認のみに基づいて女性用スペースに身体的男性が入ってくること」、つまり狭義のトランスジェンダーの権利を認めることでそれが男性の犯罪に利用されうることに対する恐怖や懸念を語っているにもかかわらず、それをトランスジェンダリストは「トランスフォビアだ、(広義の)トランスジェンダー差別だ」とみなしていることが伺える。
”TERF”の主張はトランス差別というよりは、心の中にある性自認が重視されるようになることで、その不可視性を利用した犯罪者にそれに付け入る余地を与えることの恐怖なのだ。

私はトランスジェンダー当事者ではなく、そのような主張をする人たちから「シス女性」と呼ばれる存在だ。
その人たちから”TERF”と呼ばれうる思考を持っているともいえる。
ネットでは「シス女性には特権がある」という主張さえ流れるなか、性自認とは何だろう、と一通り考えた。
そうして見えてきたのは、自身が”名誉男性”としてふるまってきたときの苦しい思い出だった。

* * *

現在30歳の私は、小学校のときに「男女平等」の過渡期を経験した。
入学したころは男女の順番で並んでいた児童名簿は途中で五十音順に切り替わったし、小学校高学年になって初めて女子児童にもブルマではなくハーフパンツの着用が許されるようになった。

それなりに私は恵まれていたのだと思う。
中学生時代は”女子力”を競うグループとは距離を置く”頭の良い”グループにいたし、県で一番の高校に進学してからも男であろうが女であろうが関係なく高校の進学実績に貢献すべきだという方針のもと、「女の子だから大学に行かなくてもいい」などとは一度も言われたことはなかった(※2)。
仕事も家事も育児も一切を引き受ける母親と、自分では電子レンジでのあたためすらできなかった父親のもとに育ちながら、「父の娘」(※3)としての私は、そこまで女性差別を意識しないまま大人になった。

大学卒業後に新卒で就職した会社は、”男社会”を公言するマスコミだった。
入社時の懇親会で、酔って顔が赤くなった男性のベテラン社員から、「成績順に採用すると、女の子ばっかりになるんだよね。だけどそれじゃだめだから、男に下駄を履かせてるんだよ」と言われたことをよく覚えている。
ちなみに、私の同期の男女比は7:3ほどだった。

当時の私は「そんなもの」だと思っていた。
むしろ、体力の劣る女である自分が”男社会”で評価されるために、人一倍頑張らなければと思っていた。
私はその会社で働いていた当時、「名誉男性」としてふるまうことで、どんどんホモソーシャルな世界に”適応”していった。

仕事で知り合った男性たちは、私の反応をからかっているというよりむしろ、ごく自然な形で私に下ネタを振ってくることもあった。
共通の知人女性を指して「あの子かわいくないよね」「あの子胸大きいよね」と品評する彼の姿は、今振り返るとホモソーシャルのノリそのものだったと思う。
私は適当に「え、かわいいじゃん」とか「そんなこと言ってもねー」なんてごまかしながら、それらを否定することがなかった。

同時に、私自身も”女の子っぽい”女性イメージを馬鹿にする言動をするようになった。
たとえば当時、「オムライスが食べれない、だって生まれられなかったヒヨコさんがかわいそうだもん!」と言う女の子がモテる、という奇妙な雑誌記事か何かを見たことがあった。
それを女性の同僚とありえないと怒りながら、たまに食堂で卵料理を食べるときに、「うわ~~卵料理!ほらモテ仕草しなきゃ!」とからかい合ったこともあった。
ディズニーランドにヒールを履いてくる女の子が批判されたときは、それを揶揄したこともあった。
そうして女性を馬鹿にする発言は、まさに自分が上野(2010)がいうところの「自分を女の『例外』として扱い、自分以外の女を『他者化』することで、ミソジニーを転嫁」していたことの表れだった。

* * *

私の経験談は、トランスジェンダーと性自認の話とはかけ離れているように思われるかもしれないが、そうではない。
最近の性自認の話を見ていて浮かんだのは、もし自分が「名誉男性」という言葉に出会う前に「(狭義の)トランスジェンダー」という概念に出会っていたら、どうなっていただろうかという疑問だ。

私は女性身体にそれなりの嫌悪感はありつつも、「まぁ変えられないし、そんなものだ」と思って生きてきた。
それでも、表面上の男女平等を享受してきた中学~高校時代、そして”男社会”で「名誉男性」としてもがいてきたマスコミ時代を思い返すと、私の「心の性」は男性だったのではないかと思う。
私は女性らしいとされるものを押し付けられるのが嫌いだし、男性並みに勉強して仕事をすることを是としてきた。
そういえば幼い頃に家族や親族から「女の子なのに可愛げがない」「女の子なのに愛想がない」と言われたことは、今でもよく覚えている。

がむしゃらにやってきて、それがいったん落ち着いたとき、私はフェミニズムに出会い、「名誉男性」という言葉を知った。
当時はまだトランスジェンダーという概念は一般的ではなくて、「性同一性障害」のみが「病気」として取りざたされ、同性愛などはテレビの中で笑われている存在だったのだ。

* * *

私は性自認のみによって性別が決められることには反対だ。
特に被差別者としての身体的女性のスペース、それも性犯罪の温床となりうるトイレや浴場といった場所を、性自認女性の身体的男性、つまり狭義のMtFトランスジェンダーに明け渡すことはできないと思っている(現行、トランスセクシュアルの方が利用していることについて反対するわけではない)。
その理由の一つは、それを許してしまうことが犯罪者に付け込む余地を与えてしまうことだ。
たとえTERFと罵られたとしても、その気持ちは変わらないだろう。

もう一つ理由がある。
それは、私がジェンダーという概念をそもそもぶっ壊したいと思っているからだ。
ジェンダー規範があるからこそ、「自分の生物学的性別と合致しない嗜好や役割を押し付けられる」という悩みが発生する。
私も当時は麻痺していたが、振り返ると女性でありながら男性に迎合し、女性蔑視をしていた「名誉男性」時代の自分がとても恥ずかしく、苦しい。
ジェンダーがなければ、たとえば「ピンクやフリフリが好きな男性」「怪獣ごっこが好きな女性」が”矯正”されることなく尊重されるはずだ。
数年、十数年単位で実現されるとは正直思わないが、ジェンダー規範を強化することよりも、そのようなジェンダーレスな未来を作っていきたいと思う。

* * *

※1…以前からフェミニストをTERFと呼ぶ言説は繰り返しなされてきているため、今回の騒動で初めて用いられた概念ではない。一方、それが今回過激化したものと受け止めている。
※2…それでも大学院に進学したときは、70代の祖母に「女の子がそんなに賢くなっちゃ…」と言われた。それに対して50代の母が「今はそんな時代じゃないよ」と戒めてくれたのがうれしかった。
※3…「父権制の娘」を指す心理学用語。男性より強い「父権的意識」を持ち、それを社会の中で主張しようとする。この概念に関しては人見(2013)を参照した。

参考文献
人見佳枝, 2013,「『父の娘』今昔―かえるの王様から東電OLまで―」『近畿大学臨床心理センター紀要』6: 65-79.
森山至貴, 2017,『LGBTを読み解とく――クィア・スタディーズ入門』筑摩書房.
上野千鶴子, 2010,『女ぎらい ニッポンのミソジニー』朝日文庫.

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