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縮毛矯正とは何か――言葉から見る抑圧

ストレートパーマを初めてかけたのは、中学生のころだったと思う。
校則では禁止されていたけれど、思い返すとほとんどの友人がストパーをかけていた。
当時はまだ技術が発展していなかったのか、あからさまに「ストパーしました!」って分かるほど、凶器のようにまっすぐな髪の友人もいた。

次第に、「ストパーだとまっすぐにする力が弱いから、縮毛矯正をかけるべき」という言説が広まっていき、あからさまなピーンとしたストレートヘアもなくなり、”自然な”さらさらな髪が巷にあふれるようになった。
私はうねうねした髪がコンプレックスで、縮毛矯正を定期的にかけながら、夏場なんかはすぐとれることを理解しながらも、汗だくになってヘアアイロンで髪を伸ばしたものだった。

* * *

ところで、なぜ「縮毛矯正」という名称なのだろう?
フェミニズムを学び始めてからしばらくたったある日、そんな疑問が頭に浮かんだ。
縮毛は、文字通りそのまま縮れ毛。くせ毛。
では、矯正とは…?

コトバンクから引っ張ってきたところによれば、矯正とは「欠点・悪習などを正常な状態に直すこと」という意味だ。
この定義に基づけば、縮毛は「欠点・悪習」であり、「正常な状態」が直毛であるということだ。

これは、「ストレートパーマ」という呼称からも分かる。
「直毛に力を加えてウエーブをつけること」を単純にパーマと呼ぶことを考えると、パーマが無徴(unmarked)=正常であり、ストレートパーマのような修辞がつくものが有徴(marked)=例外であることが見て取れる(※1)。

確かに私は、”縮毛”がコンプレックスだった。
寝て起きるとびっくりするぐらいの寝癖がついて直らないし、前髪は何もしないといわゆる”爆発”する。
まっすぐでさらさらな髪を持つ友人が羨ましいと思っていた。
だけどそれは、どうしてだったんだろう?
言語に潜む価値観、つまり「縮毛=矯正されるべきもの」という考えに洗脳されていたのではないだろうか?

* * *

私たちは人と人との、そして社会との関わりなしに生きることはできない。
どんなに人やメディアとの接触を断絶しようと、人生で完全に社会から隔離されていきることは難しいだろう。
それは言い換えれば、常に私たちは社会が発信する価値観を内面化している、あるいは洗脳されていることを意味する。

歴史的に抑圧を受けている女性はなおさらだ。
抑圧を受けてきた女性が、主体的に選択しているとされるもの――結婚、出産、ケア労働、装飾、美…
これらが果たして本当に自分が”主体的”に選択しているものなのか。
「縮毛矯正」という言葉が表すように、それを選択しなければ間違ったもの、劣ったものとみなされる中で選択”させられた”ものにすぎないのか。
私たちは一度立ち止まって考えるべきところに来ていると思う。

* * *

※1…無徴と有徴については、人種やジェンダー研究の領域で蓄積がある。例えば白人(無徴)・有色人種(有徴)、男性(無徴)・女性(有徴)という対比がそれだ。マジョリティかつ強者である「無徴」が、それ以外を他者化(=「有徴」)している。パーマ・ストレートパーマの対比は、医者・女医に言い換えれば分かりやすいだろう。ここでは、医者という職業が男性であることを正常とみなしているからこそ、そうではない女性の医者を「女医」と有徴化しているのだ。同様に、パーマ=正常、ストレートパーマ=有徴化された特異なもの、とみなすことができる。

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