役_割

「役割」について思うこと

今回はアニメから感じたこと。
「役割」について考える機会があったので、折角なので考えを書き残しておこうかと。

鬼滅の刃にハマる。

先日、髪を切りに行った際に担当の方が喉を潰してしまっていて、
「申し訳ないけど、雑誌とか漫画読んでてもらっても良い?」
ということだったので、友人からも読んだ方が良い!と聞いていた「鬼滅の刃」を読んでみようかと思い、出して貰った。

ええ。ハマりました。

結構JUMP系の漫画好きなのですが、好きなもの全部盛りという感じ。

作者はきっと私と同い年ぐらいで、漫画やアニメ凄い好きなのだろうな…と思って調べてみたら、案の定年齢近かったので、そういった部分も親近感がわいて・・・と、本題から逸れたことを長めに書いてしまったけれど、結局美容室では1巻を読み終えたところで終わった。

AmazonVideoでアニメが出ていたのを思い出して、年末年始に観ようと思って、帰宅してから3日で全部観てしまった。
(アニメは声優が豪華だった・・・)

その中で、感動シーンや考えさせられるシーンは多かったけれど、中でも「那田蜘蛛山」の一件。これが今回の「役割」について考えた元ネタである。

「那田蜘蛛山」の一件は、簡単に言うと、鬼を人が倒す。というもの。
そして、その倒される鬼が、自分より弱い鬼達に圧倒的力の差を示す恐怖政治によって『家族ごっこ』をしているという、鬼側の悲しい物語も描かれている。

〇〇ごっこ

アニメでは、家族ごっこ

とある鬼が、弱い鬼を人から滅殺されるのを救う代わりに、「母親役」「父親役」「兄役」などを命じていて、母親には母親の役割があり、父親には父親の役割がある。そして、役割に沿わないことがあれば痛めつけて罰を与える。

今となっては、「ごっこ」はしなくなったけど、小さい頃は遊びとして色々やっていたことを思いだす。「鬼ごっこ」とか。

子供のころに「ごっこ」を通して学ぶことは、
・ルール順守
・役割を果たすこと

社会の中で生きていく上では大切なことを、今思えば我々は子供のころに遊びを通して学んでいる。

遊びとしての「ごっこ」が有効的に学びに繋がる理由は、参加者全員が明確にルール&ロールを把握しているということ。
これによって、誰もが共通認識をもってゲームにのめりこむ。

役割について、誰もが共通認識を持っているということは重要なことであるように思う。

やく‐わり【役割】 の解説
1  役目を割り当てること。また、割り当てられた役目。「大切な役割をになう」「自分の役割を確実に果たす」
2  社会生活において、その人の地位や職務に応じて期待され、あるいは遂行しているはたらきや役目。
(goo国語辞書より)

役割に共通認識がなくなると

冒頭の美容室の話になるが、担当してくださった人は、
「お客さんの髪を切っている最中は、お客さんと喋らなくてはならない」
そう思っていたのではないか。それが美容師の役割であると。

だからこそ、開口一番に「申し訳ない」という言葉が出たのかもしれない。

美容室での例を続けるが、
美容室に髪を切りに行った私は、担当者から見れば、「お客さん」という役割を担っている。

ここが「申し訳ないけど…」と漫画を勧められた際に、「謝ることなどないのに」と、違和感を感じた一番のミソな気もする。

確かに私はお客さんとして美容室に行ってはいるが、「私は客だ」という強い認識は持っていない。
「通いなれた美容室の、いつもお世話になっていて仲良くしてくれる人に会いに行く」という、ふんわりした認識で行っている。

担当者さんにとって「お客さん」という役割を持った私。
「客である」という認識(または強い自覚)を持たない私。

ここで、役割に関して大きな認識の違いが生じている。

一方通行な想い

役割について相互の共通認識がなければ、それは他者に対して抱く「役割」は一方通行的な片想いと言える。

「どうして謝るのだろう」
「どうして恐縮しているのだろう」
そういった疑問が生じるのは、双方で役割という認識が一致していないからだと感じられる。

話を鬼滅の刃の鬼の話に少し戻す。
この(家族ごっこの)話をアニメで見ていて、哀しい気持ちになった。
それは、「母親役/父親役はこうすべき」という一方的な想いの縛りがあまりにも強かったから。

❝こうすべき❞という、言い換えれば、強い一方的なルールに、沿うことができず罰を喰らう。それがあまりにも哀しかった。

母親/父親という役割は命令する方も、される方も、理解している。
そういう意味では、共通の認識を持っている。
しかしながら、母親/父親に抱くイメージや価値観は一切共有されていない。そこに認識の差が生まれている。

役割と期待

ここまで書いて、気付いたことがある。それは、普段の生活の中でもこの悲しい出来事は頻発しているということ。

仕事でも、私生活でも、恋愛でも。

これは、期待と似ている。

仕事で言えば、「これ、あと処理よろしくね」と振って「できましたよ」と返ってきた内容を見て「いや、そうじゃない」「もう少し△△してくれよ」と思ったことありませんか?「普通、ここまでやるだろ」と。
私生活で言えば、駅で並んでいたら思いもよらず横から割って入られた時、「いや、何入ってきてんだよ」「周りを見ろ」と思うことありませんか?「普通、並ぶだろ」と。
恋愛で言えば、「・・・」何も言われなかったにもかかわらず、相手が不機嫌なことないですか?後から聞けば「洗い物されてない」「手を握ってくれなかった」など。そして怒られます。「言わなくても分かってよ!普通、わかるでしょ!」と。

少し脱線するが、「普通」という言葉は非常に便利な言葉でもあり、難しい言葉でもある。往々にして、「普通」という言葉には個々の価値観や考え方が色濃く反映される。

あくまでも、自分にとっての当たり前が「普通」という言葉に置き換えられることが多い。「普通」という言葉は、発した人の、相手への「期待」の最低基準として捉えることもできる。

おわりに

ちょっと長くなってきたので、無理やり締めにかかります。。

役割について考えを書いてきたけれど、やはり相互の認識あってこその役割だと感じる。

役割について、相互共通の認識がない、または捉え方にズレが生じている場合、それは一方的な価値観の押し付けになりかねない。

無意識のうちに、『この人は~~する人/してくれる人』という一方的な偽りの役割を勝手に付与している。期待していると言い換えることもできる。

一方的な偽りの役割や期待は、思い通りになれば喜ばしいが、思い通りにならなければ不幸が待っている。
一方的に期待をして、一方的に失望するなんていうのは、哀しい事この上ない。

私にとって、あの人は~~な人/~~してくれる人。
それは自分の中だけの想いである以上は、期待でしかなく、期待がハズレてしまったからと言って相手を責めてしまうのは酷である。

相手に想い/考えを伝えて、共通の認識となって初めて、役割として成立して、役目が明確化するのである。

おわり


☆ だからこそ「期待を超える行動」は喜ばれ、「期待を超える人」は重宝される。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?