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忘れちゃいけないって、こういうことなんだ -映画『すずめの戸締り』感想文前編-

先日、映画『すずめの戸締り』を観てきました。予告編の壮大過ぎる感じやTwitterから自然と入ってくる情報で正直期待はしていなくて。でも、実際に観てみたら、もう、ほんと、すごくて…!終わった後、一緒に観た夫と、ああだったよね、こうだったよね、とお互いに熱のこもったままたくさん話をしました。

でも、それだけじゃやっぱりわたしは飽き足らなくて、観て感じたこと、そこから氣付いた自分の感覚や想いを深掘りしてみました。
時系列バラバラ、サラリとネタバレありなのでご注意ください。長いので前編、後編でまとめました。お付き合いいただけると嬉しいです。

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娘が産まれてから、ちいさな子どもが出てくる作品への、特に幼い頃にお母さんが亡くなってしまった系への感情移入がすごい。
そういう作品に出会う度に、娘が大きくなるまで絶対死ねないって思うし、なんなら簡単に親を殺さないでくれよ、とも思う。

でも、今回はそういう風には思わなくて、きっと自然災害という不可抗力だったこともあるんだけど、それだけじゃなくて。敬意というか、うまく言えないんだけど、ストーリーの為に親を亡くすのでなく、そういう事実があったからこそうまれたストーリーというか。可哀想とかそういう、第三者が勝手に思い遣る当事者への氣持ちを極力抑えて、でも真摯に、丁寧に描いているように感じた。

被災者という立場になったことがないし、当事者だったら嫌な氣持ちになるのかもしれない。それは、わたしにはわかることができないのだけれど。あくまでフィクションだし、アニメーションだから、災害による死の生々しさや生臭さみたいなものはきっと削ぎ落とされていて、でも、それでも、忘れちゃいけないってこういうことなんだ、と十年以上の時を経てやっと理解したように感じた。

四歳のすずめちゃんがお母さんを探すシーンでは、すずめちゃんの氣持ちがすごく入ってきて涙が溢れた。
普段、子どもに対して、あれしなさい、これしなさい、それはやっちゃダメって口うるさくなりがちで、その背景には、親として社会のルールを教えなければ、規則正しい生活で身体の基盤を作らねば、みたいなものがあって。もちろんそこには、自分の娘がこんな事…という体裁や見栄みたいなものもおおいに影響しているのだけれど。
でも、親としてかはわからないけど、わたしが娘に対して、絶対にやらなければならない事なんて、極論、死なないことと死なせないことくらいなんじゃないかって。いつの間にか、ちいさなことでイライラうじうじしていたのかも、もっとおおらかに適当に、ヘラヘラ笑って日々を過ごしてもいいじゃん、その方がいいじゃん、と日々を見返すきっかけにもなった。

母娘関係で言うと、育ての親である叔母さんとすずめちゃんが言い合うシーン。胸の底に押し込めていたすずめちゃんに対する負の氣持ちを叔母さんが吐き出してしまうんだけど、そうだよなあ、そういう風に思ってしまう瞬間ってあるよなあって強く共感した。

人ひとりの成長と共に暮らすって、思っていたよりも大変で、娘がいなかったら、と考えてしまう瞬間がこれまで一度もなかったといえば嘘になる。
親であっても、ひとりの人間で、しんどいこともあって、やりたいことがあって、子どもの為にたくさん我慢だってしている。子どもが、守りたい存在が枷になる時もあるし、だから不満だってある、わたしだって、という思いだってある。

でも、それだけじゃない。絶対的に、それだけじゃない。娘からもらっているものは確かにあって、それは、不満とかより遥かに多くて、だから、いなきゃよかったなんて、当たり前に居てくれるからこそ言える愚痴みたいなものなんだ。

すずめちゃんとぶつかった後、自転車で彼女を後ろに乗せて目指す場所まで送る道すがら、叔母さんも同じようなことを言う。それをすずめちゃんは、わかってるよ、と微笑んで返す。

子どもは大人が思っている以上に大人の失敗を許してくれる。ほんとうは、子どもの方がやさしいんだと思う。だからこそ、そのやさしさに依存してはいけないし、利用してはいけない。でも、そうやって仲直りできるから、大人はもっと安心してたくさん子どもの前で失敗すればいいよね、失敗したら素直に認めて、謝ればいいよね。そんなことを思った。

(後編へ続く)

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