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続きは歓声の後で #5 好きって言ってよ

こちらとこちらの続きです。
完結します。


『陽気なイタリアンと落ち着いた和食、どっちがいい?』

ライブ明けの月曜日、彼から連絡が来た。
陽気な?おしゃれな、じゃなくて?とちょっと不思議に思ったけど、賑やかな方がいいかな、とイタリアンを希望した。
日程を決めて、待ち合わせ場所を決める。直接お店に行くよ、と言ったのだけれど、いや、駅で、と頑なな彼に従った。

木曜日の20時前。いつもは降りない駅の改札にある本屋さんで彼を待つ。少し前に、ごめん、ちょっと遅れると連絡が来ていた。暑さもあったので、本屋にいるね、と返事をする。すぐに、了解!のスタンプが返ってくる。

涼しい店内を特に目的もなく歩く。何を着てこようか、すごく悩んだけど、結局、大人しめのパンツスタイルにした。でも、シャツはお気に入りのひらひらしたやつで。
雑誌コーナーを眺めながら、彼が来るのを待つ。どの誌面も夏らしい内容で、元気いっぱいのものもあれば、大人の雰囲気のものもあるけれど、どれも、どこかワクワクするような、夏を楽しみにするような、そんなものばかりだった。
夏休みか、と思いながら目に留まった一冊をペラペラと巡る。楽しそうだし、素敵だなって思うんだけど、暑いし、どこも混んでるし、で、ここ数年は夏を避けて長期休みを取っている。

「お待たせ!」

ポンっと肩を叩かれる。振り返ると少し汗ばんだ彼がいた。

「ごめん、遅くなった」
「ううん、全然…」

大丈夫、と言いながら彼を見る。うわあ、スーツだあ…と見惚れてしまう。当たり前なんだけど、最後会った時に見たようなリクルートスーツではなく、もっとおしゃれでシュッとした上品なスーツを着こなしていた。手元にはシンプルだけど高そうな時計。大人の彼にドキッとする。

「どした?」
「いや、なんか、すっかり営業マンだなって思って」

そ?と彼と笑う。その笑顔がもうすっかり大人で、大人の彼と私、今、話しているんだ…うわあ、うわあ、なんか、すごい。
行こっか、と歩き出す彼の後に続く。場所はわかっているみたいで、スマホを見ることなく迷いなく進む。ちょっと歩いたところにあるんだけどさ、とか、前に取引先の人に連れて行ってもらって、とお店について話す彼の隣を歩く。

「あと、ちょっと覚悟した方がいいかも」
「何を?」
「うーん、なんて言うか、テンション?」

そうしている内にお店に着いた。
駅の喧騒から少し離れたところにポツン、とある可愛らしいちいさなお店。ウッド調の門構えには、細やかな彫刻がされている。真鍮のドアノブを彼がガチャっと開けると、熱気と陽気な音楽が流れ出てきた。

「Ora!」

空調が効いているはずなのに、暑さを感じたような気がした。その活気に負けないくらい大きな声が、店内の至る所から私たちに向けられる。

「予約していた高畑です」

彼が落ち着いたトーンで言う。手前は酒樽をモチーフにしたような机に高めなハイチェアが並ぶ、バール的な席。奥には少し落ち着けるようなボックス席がいくつか見える。その間を所狭しと店員さんが行き交う。全体的に背が高く、堀の深い男性が多い。反して客層は仕事帰りの女性グループが多く見えた。
なるほど…確かにこれは覚悟がいるかも…彼が集合場所を駅にした理由もわかった気がした。

私たちが通された席は、ボックス席よりさらに奥にある半個室で、隠れ家的な、店内の喧騒から離れた場所だった。落ち着いた空間にホッとする。

「…賑やかなお店だね」

席に着きながら彼に言う。

「飯が美味かったからまた来たかったんだけど、なかなか来づらくて」

この雰囲気だし、と苦笑しながらメニューを渡してくれた。

「そしてここはイタリアンではなくスパニッシュだね」
「あ、そうなの?ヨーロッパ大体一緒に括ってたわ、俺」

私の指摘など気にする気配もなく、私に渡したメニューを反対側から見ながら、どうする?ボトル入れる?と聞いてくる。昔から丁寧なくせに、変なところで大雑把だ。イタリアンとスパニッシュは結構違うと思うけどなあ…と思いながらメニューに目を落とす。

「うーん、せっかくだから、色々楽しみたいかも」
「じゃあグラスで頼もっか」

決まった?と言う彼に頷くと、店員さんを呼んでくれる。ドリンクを頼む流れで、幾つかのおつまみも伝える彼をスマートだなあ、と眺めた。

ドリンクが届く。彼は生ビールを、私は季節のサングリアを頼んだ。柑橘系の生果実がたくさん入ったもので、グラスの外内に輪切りのフルーツが貼り付けたように並んでいる。思っていた以上に綺麗で、思わずスマホを取り出す。照明や角度を意識して写真を何枚か撮る。
彼はその光景を珍しそうに眺める。

「あ、ごめん、癖で。ビール泡なくなっちゃうよね」

慌てて言うと、いや、大丈夫よ、と言って私に自分のグラスを傾ける。

「俺の周りにはあんまりいないから、新鮮だっただけ」

小さく、乾杯、と言ってグラスを合わせる。

「仕事で使うの?」

一口でグラスの7割くらいを飲み干した彼が聞く。おつまみが到着し、持ってきてくれた店員さんに追加のビールを頼む。

「うーん、何かに使うことはないけど、アイデア出しの時にヒントになったりはするかな」
「相変わらず忙しくしてるんだ?」
「前の会社ほどは忙しくないかな」
「へえ、転職したの」
「あ、うん。5年くらい前かな?ちょっと忙し過ぎてさ」

名刺あるよ、と鞄の中から取り出して彼に渡す。じゃあ俺も、と流れで名刺交換になった。受け取り方がとても丁寧で、営業職が身に付いているなあ、と尊敬する。

「え、係長なの?」

名刺に書かれた肩書きに、思わず驚いて尋ねる。彼はまあね、と小さく笑う。

「でも、佐々木だって主任じゃん」
「いや、私のはほんと名前だけのやつだよ」
「俺もそんなようなもんだよ」
「係長なんて名前だけで出来ないよ!」

すごい〜と名刺を見つめ続ける私を照れくさそうに見ながら、切り替えるように彼は言う。

「追加で何頼む?気になってたやつ、適当に頼んで良い?」

食べれないものあったっけ、と尋ねてくれる彼の言葉に、過去の私との繋がりを感じて、少しこそばゆかった。

彼の言う通り、ご飯もお酒も美味しくて、話も箸もどんどん進む。思っていた以上に楽しく話せている自分がいて、緊張が緩んだからか、いつもより少し飲み過ぎている気がする。身体がポカポカ、ホワホワする。
トイレに席を立った彼が、すれ違った店員さんに何かを伝える。店員さんがにこやかに、お水を持ってきてくれた。

「…なんでも、ほんと、スマートだなあ」

彼が頼んでくれたお水をチビチビと飲みながら、スマホを見るともう22時を回っていた。まだ明日もあるし、そろそろお開きかな。

「そろそろ行くか」

帰ってきた彼が言う。そうだね、と相槌を打って、入れ替わりでトイレに立つ。
トイレの鏡で自分を見ると、ほんのりと赤くなっていて酔っ払っているのがわかる。酔わないつもりだったのにな、と少し反省して席に戻る。帰ってくるとお会計はもう済んでいて、大人な彼と自分との差に、また少し恥ずかしくなった。

お店を出る。夜風が熱った身体に心地よい。

「あー、美味しかった!」
「喜んでもらえたみたいでよかった」
「ほんとにご馳走になってよかったの?結構食べたよ?」
「いいの、いいの、今日はお詫びだから」

そう笑って、俺も気になってたの食べれて満足、とお腹をさする。細身なのに昔からよく食べるよなあ、太らないのいいなあ、と彼のスタイルを改めて眺める。…スーツ、似合うなあ。
パチっと目が合う。誤魔化すように笑う。

「普段からこういうお店で飲んでるの?」
「いや、社内の人間とは普通に居酒屋チェーンが多いよ」

そっちは?と聞いてくる彼に、私もそんな感じかな、と答える。

「あ、でも、最近おいしい焼き鳥屋さん見つけて、時々行くよ」
「へえ、じゃあ今度連れてってよ」
「え、あ、うん」
「…嫌?」
「いや、全然!」
「よかった。いつにする?」

スマホを片手に、来週は水曜だったら空いてる、週中でも良ければ、と彼が言う。スケジュールを見ると私も空いていて、じゃあそこで、とお互いのスケジュールアプリに印が付く。次のお誘いまでスマートだ。

改札で別れ、それぞれの帰路に着く。
来週も会えるのか、なんか、展開が早いなあ、と、どこかで少し、ついていけない自分がいた。

***

「佐々木さーん、ちょっといいですか?」

金曜の夕方、デスクで持っている案件の最終調整をしていると、昔お世話になった営業さんが声を掛けてきた。

「はい、どうしました?」

気まずそうな笑顔を浮かべながら、ちょっと相談が、と連れられたミーティングルームには直上の課長もいて、深刻な空気を醸し出している。うわあ、金曜の夕方にこの感じは…とても嫌な感じだな。何か良くないことに巻き込まれる予感がした。

***

彼女と再会して初めて行った飲みから1週間経たずに、また彼女との予定がある。
前回会った時に次の約束をしておきたい、という気持ちが強くて、強引に押してしまった。変に思われていないといいけれど。
でも、日々のモチベーションにはかなり好影響で、社内会議でも商談でも自分でも驚くほどにキレがいい。

約束の水曜日、定時を過ぎたくらいに彼女から連絡が来た。

『ごめん…ちょっと残業しなければならなくて、30分くらい遅れるかも。佐々木で予約してるから先に入ってもらってもいいし、あれだったらリスケでもいいよ。本当にごめんね』

会う気でここまで頑張ってきたから、正直、ここでリスケとなると今週を乗り切れない。少し顔が見れるだけでもいいよな、と、待ってるから焦らず来てよ、と返信をした。

彼女が予約してくれたお店に時間通りにひとりで入る。黒と白を基調にしたおしゃれな造りで、カウンター前では、炭火で串を焼いているのが見える。けれど煙たさは感じなくて、全体的に大人の雰囲気を醸し出している。通された席でとりあえずビールと盛り合わせを頼み、ゆっくりと飲み始めた。
結局彼女が来たのは1時間ほど後だった。

「ほんと、ごめん!!」

開口一番全力の謝罪。彼女らしいなあ、と思う。

「全然大丈夫だよ。待つって言ったの俺だし。待つのは仕事で慣れてるから」

ありがとう〜と言いながら席に着く彼女は、前回会った時よりも明らかに疲弊していた。彼女の注文を待って口を開く。

「何かあったの?」

うーん、まあ、ね、と言葉を濁す。きっと仕事のことだから、社外の人間には話にくいのだろう。到着した彼女のレモンサワーと乾杯して、生ぬるくなったビールを口に運ぶ。お通しの南蛮漬けに箸をつけながら、実はさ、と彼女は言葉を選びながら話し始めた。

大体の話の流れはこうだ。
大口の取引先の担当営業が今年度から変わった。前任は同取引先を10年以上も担当していたベテランで、新しい担当は入社4年目の中堅というにはまだ少し若い営業マン。
そしてこの4月に担当が変わってから、企画がほとんど通らなくなったという。厳密に言うと、企画部が関わる企画が、だ。
営業が自分で対応できるような案件は受注できている為、先方との折衝が悪いわけではなさそうなのだが原因が見えない。とりあえず企画チームを変えてみよう、と彼女のチームに白羽の矢が向けられたのだと言う。

「でもさー、全然わかんないんだよ」

企画書のどこが悪いのか、何が気に入らないのか。前任も含めて連日打ち合わせをするも、解決策が見当たらない。そんなこんなで今日も残業だったと言う。

ふーん、と聞きながら、ジョッキにもたれかかる彼女を見る。うーん、と唸りながら今も思考はフル回転のようで、取り組み方は昔と変わってないみたいだな、と微笑ましく思いつつも心配になる。

「それってさ」

他社の状況に口を出すのは野暮だと思いつつ、気になったことを聞いてみる。

「今の担当さんに詳しく話聞いてる?」
「若い子の方ってこと?うーん、みんなあんまり聞いていないような…」

なんか、何聞いてもいまいちはっきりしないんだよね、と彼女が言葉を続ける。

「でも、その子の提案を先方は嫌がってないんだろ?」

まあ、確かに…と彼女は口籠る。
担当変更後の受注の増減などよくある話だ。でも、この場合、ネックになっているのは多分、新しい担当ではない。

「新しい担当さんの話をもう少し深く聞いてあげてみたら?もし可能であれば、前任がいないところの方がいい」
「なんで?」
「前任がいるから言いにくいことも、結構あるからさ」

ふーん、そっかあ、と少々不思議そうに彼女は首を傾げたけれど、最終的には、じゃあ聞いてみようかな〜と少し活路を見出したようだった。

そんな話をしていたら、ラストオーダーの時間になった。今日は仕事の話ばかりだったな。でも、来た時よりも少し元気になった彼女の顔を見たら、そんなこと全部、どうでも良くなった。

***

無茶振りから1週間後の金曜日。もう最近恒例になってしまったいつものメンバーがミーティングルームに首を揃え、朝から悶々とする。
前任者の時に通った企画書、今の担当になってからの企画書、今回のコンペに向けて違うチームが作った企画書に、私たちが作ったラフ案。書類だらけの机を前に、みんなでため息。もうずっとこんな感じで進捗が牛歩だ。

「どうしたもんですかね…」

前任担当が重苦しく口を開く。
このまま行くと確実にかすりもせずにコンペ落ちする。せめて爪痕くらいは残しておきたい。

「こんな状態で申し訳ないのですが、僕、次の打ち合わせがありまして」

後は彼に任せます、と現担当の肩をポンっと叩いて部屋を後にした。
ふうっと、一瞬、部屋の空気が軽くなる。

「どうします〜?もう、これ以上話し合ってても仕方ないと思うんですけど」

口火を切ったのは、私の後輩で、今回の案件でメイン担当をしている。出す案出す案ボツにされて、さすがにイラついている。

「そうは言ってもこちらでまとまってないもの、先方に持っていけないでしょ」

これはデザイナーさんの言葉。企画が決まらなければデザインには落とし込めない。その前段階から拘束されて、こちらも少々苛立っている様子。
年長者である前任担当がいなくなると、いつもこんな感じでまとまらなくなり、会議がお開きになってしまう。でも、もう、そんなことを言っている時間もない。コンペの日はお盆明け。カレンダー上ではまだ3週間ほどあるが、お盆休みのことを考えると実質2週間ない。その間に企画を詰めて、ビジュアルまでつけて、となると、相当時間がない。

現担当はというと、何を考えているのかわからない表情でそこにただ居た。いや、仕切ってくれ、営業よ、と思いつつも、今この中で最年長は私になるわけで、その役割を全く担っていない訳でもない。
下っ端として小間使いのように走り回る方が性に合っている。こういう場で取り仕切ったり、意見したり、はあまり得意でない。でも、歳を重ねるにつれ、やらなければならないポジションなのだろう。
うーん…本当にこの子に聞いて何かになるのかな。でも、営業マンとして係長にまでなっている彼が言うんだから、一応聞いてみようか。

「あ、あの…」

私の声に視線が集まる。うう、こういうの、やっぱ苦手だよ〜。

「山岸さんは現担当として、何か思うこととか、こうした方がいいんじゃないかなってこと、ありますか?」
「今更この人に聞いたってわかんないですって。どんだけの時間、話し合ってきたと思うんですか、先輩」

担当さんより先に後輩が口を出す。まあ、そうなんだけどさ〜。

「でも、少額案件については受注数が増えている訳だし、先方さんとのやり取りがうまくいっていない訳ではないでしょ」

その言葉に、現担当以外のみんなが確かに…と現担当、もとい、山岸くんに視線を向ける。急に話を振られて、戸惑いながらも彼は口を開いた。

「えっと…」

おお、こんな声だったのか、と思うくらいに、この子は会議において発言してこなかった。

「正直言うと、先方さんが求めているのは、こういうテイストでは、ない、と思っておりまして」

え?今更それ言う?

「じゃあ、どんなテイストなんですか」

苛立ちを隠さずに後輩が詰める。

「えっと…今の提案みたいにピンポイントではなく、もう少し日付に幅を持たせて、当日だけでなく、シーズンカバー出来るようなご提案ができれば…と」

え…?と多分、会議室にいたみんなが思った。

「…そんなしっかり考え持ってたの?」

驚きのあまり、デザイナーさんが口を滑らす。あ、という顔をしたけれど、ほんと、みんな、それ思ってた。

山岸くんの話によると、前任の終わり頃から先方さんの社内での方向転換があって、今までとは違う方法で消費者にアプローチしていきたい、という思いがあった。けれど、長年やってきたからこそ、前任にはうまく伝わらず、ちょうどいいタイミングで担当が変わった。
前任は思い入れが強かった分、小さな案件に関しては自分で処理できたものの、大きな案件の時には必ず目を通してもらわねばならず、結果としてうまくいかなくなった、との事だった。

「えっと、それはいつ頃からわかっていたのかな?」

私が聞く。

「…担当変わったくらいから、ですかね」

いや、もう、めっちゃ前じゃん…!はあ〜というため息が会議室を覆う。

「そういうのは、気付いた時に言ってもらわないと」
「でも、誰も僕の話、聞いてくれないんで」

ちょっと拗ねた口調で言う。いや、でも、仕事だからさあ、と思いつつも、仕方ない部分もあるよな、とも思う。
会社が大きくなればなるほど、社内の軋轢も増える。純粋に仕事に対して真っ直ぐ向き合えばいいほど単純ではないのかもしれない。営業職に関しては、特に。

とりあえず、ここでああだこうだ言っていても仕方ない。やるべき事はひとつ。

「そうしたら、一旦、山岸さんが思う先方さんの意向をお話しいただいて、その上でどう進めていくかを考えていきましょうか」

私が言うと、山岸くんは少し嬉しそうに、はい、と言った。今までの時間はなんだったんだ、と多分みんな思ったけど文句を言っても仕方ない。仕事なんだから。

***

「課長、少しお時間よろしいでしょうか」

180度どころか270度くらい方向転換した怒涛の会議を終えて、自席に戻る前に課長に声をかけた。

「お、お疲れ様。どうした?」
「この間の案件なんですけど」

あの後、怒涛の山岸トークで、みんなボロボロになっていた。初めて聞くような情報が次から次に出てきて頭の回転が追いつかない。こんなに喋るなら最初から喋れよな〜と、これも多分、みんなが思っていた。
でも、あれだけ喋る山岸くんが、これまで話せなかった環境に問題があるのも事実で。その旨を課長に伝え、営業部に調整を促してもらえないかとお願いする。

「なるほど、わかった、営業部には俺から声掛けとくよ」
「よろしくお願いします」

これで少しはスムーズに事が運ぶといいな、とふうっとため息をつく私に、課長が少し笑う。

「何ですか?」
「いや、お前もこんな風に社内調整できるようになったんだなって」

そんなの今まで考えるようなタイプじゃなかっただろ、と的確な指摘を受ける。確かに、猪突猛進が売りで、社内の人間関係とか考える気もなかった。主任という立場になった、というよりは、彼と再会した事で、彼の考え方や振る舞いに少し触れ、自分の視野が少し広がったのかもしれない。

「誰の影響か知らんが、悪い事じゃないと思うぞ」

課長はニヤリと笑って喫煙ルームに消えていった。なんか、色々勘繰られたような。ほんと、上に立つ人は聡い人ばかりで困る。

***

彼女と連絡を取り合わなくなってから2週間近く経つ。
これと言って用事がある訳でもないし、当たり前っちゃ当たり前なんだけど、ライブから立て続けに毎週会えていたから、少し寂しい。
最後に焼き鳥屋で会った時、大変そうだったからその影響もあるんだろう。
8月なかば、ちらほらと夏休みを取り始め、社内を行き交う人もまばらだ。落ち着いた仕事量を適度に片付けながら、そろそろ連絡してみるか、とぼんやり考える。

「あ、ま、ね、ちゃーん!」

能天気な同期の声が頭に刺さる。

「うるさい。あと、名前呼びやめろ」
「えー、いーじゃん、かわいーじゃん、あまねちゃん」

俺の名前は、《周》とかいて《あまね》と読む。その珍しさから営業として、覚えてもらえるメリットもあれば、こうやって揶揄されるデメリットもある。

「ねーねー、最近付き合い悪くない?」
「そんな事ないだろ」
「もうすぐ世間はお盆休みだよ〜飲みに行こうよ〜」
「嫌だよ、こんな時こそひとりでゆっくりしたい」

ほーう、と何やらニヤニヤしながら俺を見る。

「何だよ」
「いや、俺、見ちゃったんだよね〜」

嫌な予感がする。

「ちょっと前にお前がおんっ…」

反射的に口を塞ぐ。ニヤリと笑う同期の口元を手のひらに感じる。気持ち悪い。

「飲みに、行くよね?」

***

何でかもうすぐ異動になるあいつもついてきて、結局、俺と同期、あいつの3人で飲みに行くこととなった。会社の近くのチェーン店。ガヤガヤした店内の端っこで、同期が興奮気味に話す。

「いや、だってさ!全っ然、女っ気ないお前がさ!女の子と一緒にいたら気になるじゃん!しかも爽やか笑顔でさ」
「ええ!かかりちょー彼女できたんですか!?」

詳しく!と詰め寄る2人に、いや、お前俺のこと好きだったんじゃないの、とか思いつつも、かいつまんで現状を話す。

「何だその流れ、ドラマかよ」
「てか、結局、ライブ行ってんじゃないですか〜」

いいな〜とか、ズルい〜とか言いながら、グビグビ酒を飲んで、それぞれが好き勝手に話す。ただの酒の肴になることはわかっていたけれど、それでも少し、誰かに話したいくらいには、彼女に会えない時間が辛かったのかもしれない。結構、重症だ。

ふたりのダル絡みを交わしながら、帰るタイミングを見計らっていると、テーブルに置いたスマホが鳴った。
光る画面に現れたのは彼女の名前で、隠すようにスマホを手に取る。

「お、もしかして〜?」
「彼女さんですか〜?」
「まだ彼女じゃねえし」

いや、もうそれ本気のやつじゃ〜ん!と笑う同期の声を後に席を立つ。

『お疲れ様です。少し久しぶりだね。来週から一般的にはお盆休みだけど、高畑くんは?』

返信を考えて、途中でやめる。店の外まで出て、電話を掛けた。
3コール目くらいで彼女が出る。

「わ、は、はい!」

彼女の慌てた声の後ろで、ザワザワとした音が聞こえる。きっと帰り道だろう。

「ごめん、忙しかった?」

何食わぬ顔で聞く。

「ううん、大丈夫。どうしたの?急に」

声が聞きたくなって、とは流石に言えないよな。

「いや、ちょっと面倒な飲みに巻き込まれてて。中抜けの言い訳に」

ごめん、と笑うと、彼女も、なるほど、と笑った。

「帰り道?」
「うん、これから電車乗るとこ」
「遅くまでお疲れ様」
「いやいや!あ、そうだ、この間相談してたやつ、無事に進んだよ」

高畑くんのおかげ、と苗字で俺の名前を呼ぶ。嬉しいけど、もどかしい。下の名前で呼んで欲しいのは、同期なんかじゃないのに。

「そっか、よかった」
「ありがとう」
「もうすぐ電車来るかな?」
「そうだねえ」
「俺も早く帰りてえ」

ははは、と彼女が笑う。これ以上続ける会話もないしな、と終話に向かおうとした時だった。

「…そんなに面倒だったら抜けてくる?一緒にご飯でもどうかな?」

お礼も兼ねてさ、とちょっと気恥ずかしそうに提案する彼女に、心が弾む。

「えー、いいの?行く行くー」

なるべく軽く返事をする。彼女は笑いながら、そんなに嫌な飲み会だったの?って。そういう事にしたけれど、違うよ、君に会えるのが嬉しいんだよ。
落ち合う駅を決めて、じゃあ後ほど、と電話を切る。困った、かなり嬉しい。

席に戻ると、おっそいよ〜と文句を言う同期に、野暮用ができたと金を押し付け、鞄を持って後にする。え、マジで帰るの?と動揺する同期と、ポカンとするあいつを置いて店を出た。

改札を小走りで抜けて、ドアが閉まる直前の電車に飛び込み、周囲の人にじろじろ見られ、社内アナウンスでは怒られる。平静を装い、鞄を抱えてドアに寄りかかる。反射で写った自分の顔が、いつもより随分、幼く見えた。

***

久しぶりに彼に連絡をしたら、電話が来て、ご飯に行くことになった。待ち合わせの駅で降りて、構内のトイレで軽く化粧を直す。
さっきまで仕事で疲れきってていた心が、今は少し早くトクトクと脈打つ。感情の揺れ動きって、不思議だ。

10分と待たずに彼がやってくる。前回よりもラフな感じに見えたのは、もう既にアルコールが入っているからだろうか。
適当なお店を見つけて、中に入る。もう既に夏休み気分の金曜日はどこも混んでいて、何軒か回った後、カウンターなら空いてますよ、とちょっとお洒落な創作居酒屋に入れた。

グラスを重ねて乾杯する。

「急にごめんね」
「いや、助かったよ。同期と部下にダル絡みされてさー」
「何それ。ダル絡みされる何かしたの?」
「あー、なんか、付き合い悪い、的な?」

毎日飲んでるイメージあるけど、と言うと、それもお仕事です、と言い切る。営業マンってほんとタフだよなあ。

「そう言えば、無事に解決したって?」
「あ、うん、そう。高畑くんの言う通りだったよ〜そのお蔭で残業続きだったけど」
「受注できそう?」
「うーん、実際に先方さんに会ったことないから何とも。でも、印象には残れると思う」
「そっか」

よかった、と笑う彼に、あ、と面倒事を思い出す。

「でも、なんか、それから営業くんに懐かれちゃってさ〜」

きっかけとなった打ち合わせの後、課長が営業部に取りあってくれて、山岸くんは無事に独り立ちした。というか、前任者の仕事を増やして結果的に手を離させたんだけど。
その裏で手を引いていたのが私と言うことが山岸くんにバレ、めちゃくちゃに感謝され、それからというもの、社内でうっかり出会うと毎回大袈裟に挨拶をしてくれる。悪いことではないんだけど、正直ちょっと面倒くさい。
ふうん?と興味なさげに彼はハイボールを口に運ぶ。

「あれ?今日はビールじゃないんだ」
「さっき飲んできたからお腹いっぱいで」

そっか〜なんて、関係のない話で愚痴を流す。

「あ、そうだ、お盆休み」

彼がスマホを片手に話し出す。

「うちの会社、お盆に取らなくても良くて、いつもちょっと時期ずらして取ってるんだ」

どこも混むし、高いし、と彼は続ける。

「だから、来週も普通に仕事だよ。何かあった?」

覗き込むようにこちらを見る視線にドキッとした。カウンターだから、いつもより距離が近い。

「あ、いや、私も同じ感じで」

緊張を悟られないように、料理に手を伸ばす。

「でも、やっぱりお盆だから仕事あんまりなくて、大体定時で上がれるんだよね。だから、その…」

じっと見つめる瞳に、じんわりと汗ばむのがわかった。

「もし予定なければ、一緒にご飯でもどうかなって」

彼が柔らかく笑う。それだけで心臓が飛び跳ねる。

「是非」

ああ、ダメだ。完全に落ちてる。こないだまでは毎週会うことに少し抵抗を感じていたのに、会えない時間が気持ちを育てるって、こういうことなのかな。

「どっか行きたいとこある?」

彼の質問に、待ってました、とばかりに調べたお店を紹介する。

「あのね、夏休みだから、せっかくだしビアガーデンに行きたくて」

でもってちょっと大人というか高級志向のところが良くてさ、とホテル系列のお店や、デパートの屋上でやっているものを次々と彼に見せる。ここはビールの種類が多くてオクトーバーフェストみたいな感じなんだよ、とか、こっちはキラキラカクテルが多くて〜と興奮気味スマホを見せながらに話す。
ふうん?と彼が覗き込むと、前髪がさらりと触れた。反射的に身体を引く。

「あ、ご、ごめん、なんか興奮しちゃって」
「いいよー、全然」

ニコニコと楽しそうな彼に、こういうの慣れてるんだろうな、と思う。長身で顔もそこそこ、若くして係長なんて、そんな高物件、なかなかいない。モテるんだろうなあ、と思うと、心の奥底がモヤっとする。

「どした?」

急に黙った私に心配そうに声を掛ける。

「ううん!何でも!あ、えっと、どこがよかった?」
「俺はどこでも、正直違いがあんまりわからん」
「あ、そっか…」
「佐々木が一番行きたいなって思ったのはどこ?」

そこにしようよ、と彼は優しい口調で言う。

「あ、ここなんだけど…」

該当店舗のページを開いて彼にスマホごと渡す。

「個室が良くて…でも、ちょっとお高いのと、その、かなり…」

カップル感が強いのだ。もちろん、女子会でも可、な感じなんだけど、付き合ってもいない男女ふたりで行くにはなかなかに勇気がいる。
さらっとページを読み進め、彼は一言、ここでいいんじゃない?と言った。

***

世間がお盆休みに入った平日。いつとは通勤時間帯の電車に、チラホラと遊びに出かける人たちのワクワクした感じが見られる。俺と同様、スーツ姿で乗っている人はそう多くない。
閑散としたオフィス街を抜けて、これまたシンッとしたフロアでパソコンを立ち上げる。

「あまねちゃん!」
「…朝からうるさいな」

うるさいなじゃないよ!何で金曜途中で帰ったのよ!とギャンギャン言う同期をあしらう様に自販機に向かう。
テンションが弟と似ているが、こちらは騒々しく頭に響く。損なタイプだよな、と眺めながら、缶コーヒーを買ってやる。

「…ありがと。ってそうじゃなくてさ!」
「朝から賑やかだね〜」

爽やか笑顔の部長がやってくる。

「あれ?部長も出社ですか?ご家族は…」
「嫁さん実家の集まりで帰ってて、俺はそう言うのちょっと面倒くさいからパスさせてもらったの」

ガコン、とコーヒーを買いながら言う。

「まあ、適当に仕事して、定時で帰ってね〜」

物分かりのいい上司の下につくと、とても楽だ。

チームのスケジュールを見ると、ほとんどが休みを取っていて、やる事がない。のんびり仕事ができて良いのだが、この皺寄せが実際に長期休みをとった時にくるのもわかっている。それでも時期をずらした休みの、何ともいない背徳感がたまらない。それに今年はもしかしたら、なんて期待が少し頭をもたげる。

働いている人数が少ないとは言え、定時で上がれば飲みに誘われたりもするし、金曜は午後から市場調査、直帰の流れにした。月曜日からワクワクしている自分に苦笑する。仕事が少ない分、意識がそちらに向いてしまうのを必死で抑えつけた。

仕事は探せば出てくるもので、忙しい時には取り組めない、チーム全体のバランスや、各個人の業務の棚卸しなどをひとり黙々とやった。ここでの調整が休み明けからの効率化に繋がるといいな、と思う。まあ、現実はそう、うまくいかないだろうけど。

それでも時の流れはいつもよりも格段と遅く、やっとのことで金曜日になった。
昼休憩を終え、ちょこっとパソコンをいじって、市場調査に出る。都内のデパートや商業施設を周り、世の中の流れを肌で感じる。
今、何が注目され、人々は何に興味を持ち、どこにお金を落とすのか。決してそれだけではないけれど、ずっとオフィスに閉じこもらず、こうして時々世の中の金の流れを肌で感じることは大事だと思っている。

市場調査を早めに終え、カフェチェーン店でパソコンを開く。定時より幾分早いが…まあ、今日くらいいいだろう。彼女との待ち合わせよりも少し早い夕方。パタン、とパソコンを閉じて席を立った。

***

待ちに待った金曜日が来た。彼とご飯に行った日にその場で予約した大人テイストのビアガーデン。
いつもよりもちょっとお洒落をして出社した。
気分が浮ついている分、勤務時間中はしっかりと仕事をこなそう、と気合を入れた。
ほとんど出社しないかと思っていたけれど、私たちのコンペもお盆明けだし、他のチームも案件を抱えているみたいで、チラホラと人が見られた。それでも、いつもより随分と静かなオフィス内で、ワイヤレスイヤホンをしながら集中する。

ふっと気が付くと定時を少し過ぎていて、慌てて作業中のデータを保存し、パソコンを閉じる。
トイレで身なりを整えて、エレベーターホールに向かうと、すっかり私に懐いてしまった山岸くんがいた。

「あ、佐々木さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」

シンっとしたホール、ふたりきりでエレベーターが来るのを待つ。

「あ、お蔭様で無事にビジュアルまで間に合いそうです」
「そうですか、よかったです」

下手に会話を続けない方がいい、と何となく思い、素っ気なく返す。チンっとエレベーターが到着を知らせた。ひとりだけ乗せたエレベーターが私たちを受け入れる。中でもふたりっきりにならなくてよかった〜と思いながら、階下に向かう光の点を目で追う。

一階に着く。先に乗っていた人が足早に降りていく。彼女も誰かと予定があるのかな。微笑ましく眺めていると、山岸くんが口を開いた。

「あの、この後、ご予定とかって」
「あー」

そっか、誘ってくれちゃう感じなんだね。そっかーと心の中で頭を抱える。素直に言うか、適当に受け流すか、迷っていると、カツン、カツン、とエントランスの奥からこちらに向かってくる足音が聞こえた。

「佐々木、お疲れ」

そこには彼が立っていて、完全にフリーズする。

「あ、へ?え、何で…?」
「早めに終わったから迎えに来てみた。一応、連絡入れたんだけど。同僚の方?」

山岸くんを指して言う。あ、うん、と答えて山岸くんを見ると、彼も固まっている。

「はじめまして。佐々木の大学の同期で、今日この後、約束していて」
「あ、は、はい、そうなんですね」

できる営業マンオーラを出す高畑くんに、山岸くんは完全にやられている。

「お仕事の話、でしょうか?」
「あ、いや、いえ、そう言うわけではなくて…あ、その、お疲れ様でした」

お疲れ様です、と営業スマイルで応える高畑くんとフリーズしたままの私を置いて、山岸くんは帰って行った。
スマホを確認すると、確かに連絡が来ていた。

「ごめん、全然気が付かなくて」
「いや、俺も急に思い立ってさ」
「何で会社の場所わかったの?」
「名刺くれたじゃん」

ああ、なるほど…できる男はやっぱり違うな。

***

ふたりで電車に乗って、最寄駅に着き、キラキラした街並みを抜けて、有名デパートの最上階へと足を運ぶ。期間限定でここ数年毎年行われている、グランピングをテーマにしたビアガーデン。ずっと行きたいと思っていたけれど、時期的にもお値段的にも一緒に行ける人がいなくて叶わなかった。それがこんな形で実現するなんて。

ホテルコンシェルジュのような受付で名前を告げて案内をしてもらう。賑やかだけれど、キャピキャピした感じはなくて、全体的に落ち着いた、大人の愉しみ、といった感じだ。
オープンフロアの席と、小さなテントをモチーフにした個室があって、私たちはテントの方を予約した。
店員さんについて、オープンフロアを歩いていると、ねっとりとした女性の声が私たちに掛けられた。

「あら?高畑さんじゃない?」

反射的にふたりで振り向く。高畑くんは、一瞬だけ固まって、その後すぐに営業スマイルになった。

「お久しぶりです。うちのがいつも、お世話になっております」

あら、やだ、偶然、と私たちより少し上くらいの女性は、しれっと彼の肩に触れた。

「お連れの方?」

探るような目で私を見る。

「あ、大学時代の友人で。久しぶりに皆んなで飲もうってなって」
「随分お洒落なところで集まられるのね」
「もう、私たちも大人ですから」

ははは、と笑うふたりに、除け者になった気分だった。

「プライベートですか?」
「いいえ、社長たちと一緒に日頃の労いに」
「ご挨拶に伺っても?」
「もちろん」

こちらです、と女性らしい仕草で彼を案内する。私の方をチラッと見て、フッと笑った気がした。彼は、ごめん、すぐに戻る、と言って、女性と一緒に消えて行った。

帆布で出来たお洒落なテント。シンプルな外装の中は、木目調のローテーブルと、ゆったりとしたラタンチェア、イスには大きなクッションが置かれている。シンプルなガーランドライトが間接照明になっていた。
素敵、とテンションが上がるはずだった場所も、ひとりぽつんと案内されれば、しらけてしまう。
気を遣った店員さんが、お連れ様がいらっしゃってからオーダー致しますか?と聞いてくれたけれど、ここでひとり、飲み物もなく座っているなんて惨めすぎる。ひとり分の飲み物だけ頼んで席に座る。
大きなクッションはふかふかで、座り心地がとても良かった。それが余計に、今の私を哀しくさせる。こんな所で、ひとりで、何やってるんだろう、私。

仕事関係の人だってことはわかってる。彼女でもない私よりも優先させるのだって当たり前だ。でも、浮かれていた分、落とされた衝撃は強くて、胸の真ん中辺りが痛い。

「…みんなって、私、ひとりなんだけど」

透明と青、二層に分かれた綺麗なカクテルが届く、コースの料理も出し始めちゃってください、なるべくにこやかにお願いする。最初の料理が来ても、二品目が来ても、彼は帰ってこなかった。

***

完全にミスった。
ビアガーデンの入り口で、取引先を見送った後に彼女の席へ急ぐ。どれも似たようなテントで、最初に案内してもらってないから大体の見当しかつかない。店員に説明し、案内をしてもらう。店に到着してからもう軽く30分は過ぎている。

席に着くと、並べられた料理を前に、8割くらい飲んだグラス、暗い顔でスマホをいじる彼女がいた。俺を見ると、ふっと笑顔を作る。

「おかえり〜」
「ほんっと、ごめん!」

いいよ、いいよ、お仕事でしょ、と言う彼女のテンションは明らかに低い。楽しみにしてくれていたのに、俺だって楽しみだったのに、兎に角タイミングが悪かった。

俺が捕まった女性は、大口取引先の秘書で、既婚のくせに何かと構ってくる、ちょっと面倒な人だった。その癖、先方社内での信頼関係が厚く、無碍にもできない。咄嗟に嘘を吐いたのも、色々と詮索されるのを避けるためだった。

「あの、さっきのは」
「いいよ、いいよ、とりあえず食べよ?」

もう冷めちゃったのもあるけど、美味しいよ、と彼女は俺の分を取り分けて手渡してくれた。あ、ダメだ、リカバリー出来ないやつだ。もう、彼女の心のシャッターは閉まっている。昔からそうだった。怒ってくれれば、まだ、何とかなるのだが、こうして笑顔で閉じられると、どうしようもない。
とりあえず、せっかくの雰囲気を楽しむことにした。お蔭様で、上辺のトークは得意だ。上っ面だけの時間が進む。こんなはずじゃ、なかったのに。

***

重苦しい中、楽しそうに振る舞う時間はなかなか進まない。こんなはずじゃなかったのにな、そう思うも、うまく切り替えられない自分が哀しかった。寂しかったよ、早く来て欲しかったよって言えばいいのに、言えない。
素直に言えるようになったと思ったのに、やっぱり根底では変わらないのかな。

ラストオーダーの案内をされる。お互いにドリンクを一杯ずつ頼んで、お店を後にした。

人気店だから、出入り口も混み合っていて、エレベーターもぎゅうぎゅう。ちゃんと話すような機会もないまま、ビルの一階に着いた。
重い空気に、一石を投じてくれたのは彼だった。

「…まだ、時間ある?」

うん、と頷くと、行きたいとこあるんだけど、付き合ってくれる?と促される。街路樹にクリスマスでもないのにイルミネーションが飾ってあって、綺麗。冬とは違うゴールドの輝きが、夏のリゾート感を演出していた。

しばらく歩くと、ちょっと開けた広場に着く。円形劇場みたいに半円状に広めの石段があって、たくさんの人たちが既に座っていた。

「結構、混んでるな…ここでもいい?」

ちょっと離れたところにある石垣に、ふたりで腰掛ける。彼はチラッと時計を見る。

「もうすぐ、始まると思う」

何が始まるんだろう?と思うと同時に、アナウンスが流れる。

「それでは、夏の夜に咲く噴水の、美しい奏でをお楽しみください!」

その声を合図に、音楽が流れ出し、目の前の広場から噴水が湧き上がる。音と水に、光が合わさる。ミストの演出が、肌に触れてひんやりと気持ちいい。

そこここで歓声があがる。水の雫、一粒一粒が見える。きらきらしていて、綺麗。花火みたい。

15分ほどのショーが終わると拍手が湧き、ゾロゾロと人々が動き出す。ぼおっとする私に、彼が声を掛ける。

「夏休み気分、少しは味わえた?」

少し困ったように笑う彼の顔を見た時に、今日初めてちゃんと彼を見たな、と思った。

「…うん!すごかった!」

ありがとう、とやっと素直に言葉が出せた。
よかった、と安心したように彼は笑う。

「なんか、ごめんね」
「え?」
「楽しめなかったでしょ、さっき」

そんなことないよ、と取り繕うが、全然誤魔化しきれていなかったんだな、と思った。笑顔でいたつもりなんだけどな。

「あの人、取引先のちょっと面倒な人でさ、巻き込みたくなかったんだ」

でも、ごめん、結局巻き込んだようなもんだった、と彼は項垂れる。何て言葉を繋げたらいいんだろう、と考えていると、先に彼が口を開く。

「また、今度、お詫びさせてよ」

またお詫び、か。もう、お詫びはいい、かな。

「…いいよ、切り替えられなかった私も悪いし。それにちゃんと楽しめたよ?」

笑顔をつくって笑って見せる。
そっか、と少し寂しそうに彼は笑う。
沈黙が流れる。
街路樹が風に揺れてカサカサと音を立てる。
じゃあ、と彼が小さく出そうとした言葉が喉にひっかかる。咳払いをして、言い直す。

「…じゃあ、今度、もう一度、ちゃんと君と楽しむ時間を俺にくれる?」

俺は、あんまり楽しめなかったから、そう言う彼に抑えていた言葉が湧き上がる。

「…それは、友人として?」

え?と彼が言葉に詰まる。ギュッとスカートを握る手が冷たい。何、子どもみたいなこと言ってんの、私。

「あーごめん、ごめん!今のなし!忘れて」

パッと手を離し、笑顔をつくってわざと明るい声で言う。そうしないと泣きそうだったから。
ははは、と笑う私を、彼はじっと見る。その口元が動く。

「…俺は、恋人としてがいいけど」

静かな声が夏の風に乗って耳に届く。

「…また、昔みたいに、なんなら今みたいに、うまく伝えられなくて、失敗することもあるかも知れないけど」

穏やかに、丁寧に、彼の低い声が私に言う。

「その都度、ちゃんと向き合いたいと思うから。だからさ」

彼を見る。目が合う。顔が赤く見えるのは多分、お酒のせいじゃない。

「だから、もう一回、俺と付き合ってもらえませんか」

零れた涙が手の甲に落ちた。顔が、身体が、熱い。

「なんの、涙?」

静かに息をして、整えてから、答える。

「…嬉しい、涙」

そっか、と彼の目尻が下がる。

「手、繋いでもいい?」

そう言う彼に右手を伸ばす。その手は彼の大きな両手に包まれる。

「好きだよ、みゆ」

ここで名前呼びはずるいよ。また涙が溢れてくる。重ねた手の一方が、スルリと指の間に入ってきて、恋人繋ぎの上に、手を添える形になる。さっきよりもずっと、彼の手の大きさを、硬さを、温度を感じる。
うぅと唸って、鼻を啜りながら彼に問う。

「いつからそんなに甘くなったの…」
「俺も驚いてる」

やわらかく笑う。その声がもう、甘くて、やさしくて、心全部、持っていかれそうになる。

「甘いついでに、甘えてもいい?」

私の手を撫でながら、覗き込むように彼が言う。

「名前で呼んで。好きって言って」

ああ、もう。なんなんだ、この男は。全部がずるい、ずるすぎるよ。
絡めとるような目に捕まる。ああ、もう、ほんとうに。

「…あまね」
「なあに」

かつて何度も呼んだ名前。答える声はあの頃よりも少し低い。

「…だいすき」

満足そうに笑って、彼は、俺も、と囁いた。

おしまい

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