好くこと、好かれること。あと、私は犬派。
つい2週間前に到着したばかりの隊員の方々と歩いていた時、
一人の足が止まった。
道端に無防備な姿で子猫が寝ている。
あまりに愛らしく、私たちは取り囲む形で子猫を眺めた。
「犬派?それとも猫派?」
定番の質問に、ほぼ反射的に回答した。
「私は猫にあまり好かれないから、かまってくれる犬が好きかな」
回答してから、なんだか私の人付き合いの本質なのかもなあ
なんて感じた。
*
小学生の頃、
穏やかで優しく、子供たちから愛される塾の先生がいた。
「先生を嫌う人はいないだろうね」と私がと言うと
「そうだと嬉しいけど、皆から好かれてる人はそういないんじゃないかな。
僕の事を嫌いという人もいると思う。」と返ってきた。
想定していなかった返答に衝撃を受けた覚えがある。
喧嘩はあれど、仲直りをすれば解決する。
陰口なんかも耳にするけど、それは本当に憎くて言っているとも思っていない。
小学生の頃の私は、自分を忌み嫌う人なんて存在していないくらいに思っていた。(なんて能天気)
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「好意は好意で返ってくる」
誰が言っていたのか、何かの自己啓発本で読んだか。
好意を受ければ悪い気はしない。
好意を持ってコミュニケーションを取るに越したことはないだろう。
ただ、自分をよく思わない人に好意を持って対応し続けるほどの人間性を私は持ち合わせていない。
誰にでも分け隔てなく、態度を変えずにいるのが人格者
と言われるが、菩薩か何かだろうか。
あからさまに態度を変える事は論外だが、皆に好意を持って対応していたら心が削れていきそうだ。
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誰にでも変わらず優しい友人がいる。
そんな人は輝いて見えると同時に、
人付き合いで心が擦り減らないのだろうかと心配になる。
仕事ならまだしも、
常日頃からそのような態度で人に接することができる彼女は
人と接するパワーのようなものの容量が、私とは異なるのかもしれない。
と勝手に解釈している。
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「好かれたければ、好かれる努力をしろ」
中学の部活の顧問がよく言っていた。
言いたいことは分かるが、なかなかの暴論だなとも思った。
「好かれる努力」は組織やコミュニティ内である程度必要な努力ではある。
その場合、お互いが歩み寄っていかなければ片方の心がすり減る一方だ。
「好く」努力もしてほしい。
ふんぞり返り「好かれる努力を」などというのは違和感を感じる。
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皆に好かれるのは、なかなか難しい。
皆を好くことも、同様に難しい。
ならせめて、私は私を想ってくれる人を
それ以上に大切にしたい。
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