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「遺作」-1

齢二十六歳にして「遺作」などというタイトルをつけてみた。
私は病気でもないし、自ら命を終わらせるつもりもない。
それでも、「遺作」と題したかったのは、「死」の準備をすることで、逆説的に「生きていること」を感じたかったから。
 
「生きている」という感覚への飢えが、この数日間、私を支配している。
 
何かをしてもいい。何もしなくてもいい。そんな守られた環境の中で、起きたい時間に起きて、働かなくてもご飯を食べて、お風呂に入って、電気を使ってスマホを充電して、一日中どうでもいい動画を見ている。
この実家はぬるま湯のようで、私はここにずっといたら、自分の足腰は弱る一方なのかもしれない。
 
楽しいこともある。

私も時折仕事をもらって、誰かに喜んでもらったり、自分の発信したいことを発信して、うれしい反応が返ってきたり。好きな麻雀番組を夜な夜な見ては興奮して、画面に向かって大声で叫んだり。楽しいこともある。

それでもなんだろうな、「活き」が足りない感じがする。
「活き」とは、「生きる」こととつながっているのだろう。同じ音だし。
だから最初に言った、「生きているという感覚への飢え」に、話は還ってきたのかもしれない。
 
死ぬ準備をしようと思った。
 
心配しなくていい。本当に私は死なない。
 
ただ、ぼんやりとあと六十年生きるとするならば後回しにするであろうことを、「あと二ヶ月の命」という風にすれば、本当にやりたいことから順番に手をつけられるのではないかと思ったのだ。
そして、「期限付きの命」という自覚を持って生きる方が、濃密で、活きのいい時間になるのではと思ったというだけなのだ。
 
この文章を書きはじめたのも、「あと二ヶ月の命」という想定をしたからだ。
 
全部、書いてもいいような気がした。本ならば。
全部、書いてもいいならば、書いてみたかった。

(という書き出しで、本を書こうと思っています。
 随時、noteに載せると思います。)

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