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【長編小説】『月は、ずっと見守っていた』第3章「解放の予感」
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前回のあらすじ:
「kickback」の常連客である謎めいた男性は、無邪気な笑顔と神秘的な瞳を持つ50代の男。七海は彼と会うたびに胸がザワザワする不思議な感覚を覚え、次第に惹かれ、時に懐かしさを覚えるようになる。しかし、ある晩、彼との帰り道に激しい頭痛と吐き気に襲われる。彼との出会いが自分の過去と繋がっていることを感じ始め、彼が七海の未来にどんな影響を与えるのか、徐々にその真実が明らかになっていく。
正月休みが終わった寒い夜、澄んだ空に静かな月が輝いていた。
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七海は、長引いていた離婚協議が、思いもよらない事で、終局に向かい始めたことを知った。
彼女は安堵する一方で、独りになって自由になれるという期待と、自立していけるのかという不安が脳裏をかすめた。
こういう時、七海は一人で静かに酒を飲む。穏やかなひとときは、心からリラックスできるからだ。
その日、カラオケスナック「Jupiter」の片隅で、七海はどこか遠くを見つめながらグラスを傾けていた。
タバコの煙がほのかに漂い、これまでの道のりを振り返りながら、七海は静かにその時間を楽しんでいた。
6年前、七海は弁護士を介入させて、夫との離婚協議を始めた。弁護士を依頼した当時、夫のDVが彼女の心を壊し、不安定な状態に陥っていた。
そのうえ、夫の執拗な嫌がらせが日々続き、毎日が恐怖と不安に支配されていた。
夫は高圧的で、人を見下した態度を取る人だった。協議に際しても、離婚に同意する意思を見せたかと思えば、一変して復縁を望んだり、自分の言いたいことしか話さず、話し合いを欠席たりと、協議を混乱させてばかりだった。
七海はその自己中心的な態度に疲れ果て、何度も諦めようとしたが、夫の無責任な行動が証拠となり、弁護士が素早く動いて、ようやく離婚に向けた道筋が見えてきた。
離婚紛争の間、七海は心身の治療に通っていた。心の病は、身体の病ように目に見えて自覚できるものでなく、自分が自分でなくなる。
だから、自分が病気であることを受け入れることがとても難しかった。それに、認知療法やカウンセリングは、自責の念にかられることも多く、辛いことの連続だった。
しかし、ある時、『自責だけでは解決しないのではないか?』と問題の本質を見つめるようになり、次第に治療の効果が現れ、少しずつ心が落ち着き、自信も取り戻していった。
「我ながら、よく頑張ったな…」と七海は酒を口に含みながらつぶやき、続けて「ママ、おかわり」と頼んだ。ママがグラスを満たすと、七海は静かに微笑んだ。
解放される日がもうすぐ訪れ、やっと枷が外れると、心が軽くなったような気がした。
「これから、どうなるんだろう…きっと、よくなるしかないか!」
七海はタバコに火をつけ、煙を吐き出した。未来には、まだ見ぬ可能性が広がっている。どんな道が待っていても、今はその先を信じて歩んでいけるような気がしていた。
微笑んだ七海の表情には、少しの余裕が感じられ、彼女は再びグラスを手に取った。
タバコの煙が、過去の苦しみを少しずつ溶かしていくような気がした。
ふと、七海は思った。
いつから、こうして一人で飲みながら考え事をするようになったのだろうと。
子供の頃から、誰かに相談できる環境がなかったので、自問自答するしかなかった。
そして、いつの間にか空想の中でミニ裁判を開き、一人で弁護士と裁判官を演じ、そこで自分なりの結論を出すようになっていた。
大人になってからは、ミニ裁判の裁判官の代わりに、酒がその相方となった。しかし、時折深酒をして記憶が飛ぶこともあった。
そうなると、裁判どころではなく、何を議論していたのかさえ忘れ、翌日苦笑いすることもあった。
ただ、記憶がなくなる瞬間だけは、七海の心の重荷を下ろすような解放感を味わっていた。
今宵の酒は、いつもより一層、七海の心に新たな力を与えているように感じられた。
To be continued
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次回配信予定日は、11月22日(金)
内容予告:次回、第4章「微妙な距離」では、七海と『変わった客』との関係が思いがけない展開を迎えます。Jupiterでのひととき、二人の距離が少しずつ縮まる中で、七海は彼とのやり取りに複雑な感情を抱き始めます。過去の傷が未だ癒えぬ中、彼との関わりが心に新たな波紋を広げ、彼女の心は徐々に揺れ動いていく…。次回もどうぞお楽しみに!
[前回の記事はこちらから]