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「本当はどう生きたいのか?」自分を観る

THE MENTAL MODEL WORKBOOK
自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト

情報の提供ではなく、自分の内側の無自覚なものに光を当て、ありのままを観てみる、そして感じてみる、という体験ができるように構成されている

ワークを通じて自分を見つめる内省的な体験を通して、自分の潜在意識に眠っている真実を「思い出す」ことを意図している

内省とは人間にとって自然な行為であること、そして内省を通して知らなかった自分と出逢い、自分に深くつながっていく感覚

無自覚なままの自分の内側にあり、人生に実は大きく影響しているものに気付く

●直感を大事にする  
考えすぎない
●ただ認知する  
評価をしない、ただ気づいている
●楽しんでやる
●日常の体験こそ気づきと学びの機会

自分の中に起きた洞察だけが自分にとっての真実を教えてくれる
常に外側にあるどんな正しさよりも、自分にとっての真実の方が大切

1,自己分離の構造
自分の存在そのものに対するいい・悪いの区別が生まれる。それが内的な自己の分離。どんな人もある。

人間は幼少期に採用した信念・思い込みを検証することなく何十年も真に受け、無自覚に握りしめている。外側の期待、正しさ、べき論、常識といった規範をもとに自分がどう振る舞えば世界が自分を受け入れてくれて、自分をどう見せたらいいのか、という枠組みができる。こうして自分でも無自覚のうちに、成長していく過程で事故分離の構造は内側に確立している。
自分に問うことで今自分はどんな思い込みから生きているのかを知れる。
自分が自覚していないことでも、身体は正直に反応する。

人間が自分の内側に何があるのか、に無自覚である限り、本当にありたい自分を選ぶことはできない。
無自覚に自分を動かしている信念や思い込みに気づき、そこで初めて違う選択肢が生まれる。「何があるか」に気づかなければ「どうしたいか」が選べない。自分を理解するとは、それまでに無自覚だった「自分の中に本当にあること」に気づいていくことである。
自己分離の構造を理解し、観ることができたとき、初めて本当にありたい自分とは何かに意識を向けることができる。
自分の中にあることをいい・悪いと評価・判断せず、自分にあるすべてをただあるがままに認める、自分を受容する(自己受容)

自己受容があって人は初めてありのままでいられる安心感が生まれる。事故分離がある限りは何かにならなくてはいけない強迫観念、恐れや不安によって、ありのままの状態でいることができない。

2,ダメな私の実体
自分は分離した個体としてこの世界でなんとか適合して生き延びていかなくてはならないと思い込む。ここが行動に向かう意識の起点となっているため、人に受け入れられない自分はダメだと判別し、二次元的な世界を作り上げる。

ダメな自分を克服し、だめな自分を上手く隠し、受け入れやすい自分を演じることで周囲に認められ、能力も上がって成長を感じ、生きる効力感も得られる。だからこのプロセスは人間が発達する上で必要な体験。
でも、一生そればかりやっているとしたら幸せなのか?

自分の回避行動のパターンを知る
人は「ダメな自分を感じると痛い」「ダメな私を感じると不快」だから、その痛み・不快を味わうことを避けるためにダメな私をあってはならないと拒絶し、克服したり、隠したりする。
本当はその痛みや不快を避けているだけ。正しさやべき論でそれを「いいこと」にしたり、「自分がやりたいことだ」と意味づけて、その行動を正当化している。
これを「回避行動」とよぶ。克服型と逃避型がいる
ダメを克服すればするほどありのままのダメな自分を外側に表現できる余地は小さくなる。

人間は自分自身にやっていること以上のことを人や外側の世界に対しても必ず同じようにやっている。
自分にやっている以上のことは人に対してできない。だから自己理解することが他者理解につながる。

外側で現れることは自分の内側の鏡である。自己分離に基づく回避行動をしている限り、自分の内的分離が外側に投影されるため、外側にも他者と分離を感じる体験が生まれる。

生きるとはあることすべてを体験すること。本当はあってはならない体験はない。快・不快から体験を選り好みするのではなく、自分の命にあることすべてを感じて理解し、そこから行動し、外側に起きることも体験として味わっていく。

3、世界に対する私の信念
自分で変えることなどできない与えられた環境に適合するために、この世界はこういうものだという概念を固定化し、その世界に「対して」どうしたらうまく適合できるのかを考えるようになる。そこからこの外側の世界に対する信念、「この世界は○○だ」ができあがる。

私たちの行動は必ず何かしらの信念から起こっている。行動と紐づいているものが信念であり、だから自分の行動の元となる信念に気付くことが自分を理解することにつながる。行動を伴わない考えや思考は、体験・現実を変える力を持たないただの概念でしかない。

「ひとりの人間の内的世界が外側のその人の現実を作り出している」
これが現実創造の原理
私たちがよくやる課題解決のための行動は、自分の外側にある課題を特定し、それを何とかしようと解決策を考える。その結果「どうしたら、何をしたら」よくなるのかという「やり方」つまりhowtoに集中し、行動や消費エネルギーをどんどん増やしていく。しかし「自分の内側が現実を作り出す」という原則に則ると、このtodoを変えることにより課題解決では、一時的に状況が改善した感じがする処方箋になることがあったとしても、抜本的に現実が塗り替わることはない。
多くの場合、世界に対する信念・認識は幼少期の体験から知らないうちに構築されている。その信念は自分が望んだものなのか?
自分は無能であり現実は変えることができない、どこかで思い込んだままそれに抵抗することしかできない。

信念→行動→現実

信念は自分で選ぶことができる。どんな世界を作り出したいか自分で選んで生きることができる。いままで無自覚に世界に適合できなかったらどうしようという恐れや不安から「不快」を「快」に変えようとする行動に費やした莫大なエネルギーを、自分が本当に見たい世界を生きることに向けることができれば、自分が本当に望む現実を体験できる人生に変わっていく。

4,他者分離の本質
「嫌いな人」は、実は「嫌いな自分」 自己分離した自分の投影
嫌いな人に対する自分の深い反応、そこに意識を向け、自分を観ることで無意識下にある分離した自分を発見できる

例えば「評価」
自分の中に人を評価している自分がいるのに、「人を評価することはよくないこと」とその自分を隠したり、人の評価などしていないフリをしているかもしれない。「自分が評価されることに遺体を覚えた過去の体験」から人に対して評価することを避けているかもしれない。

「嫌いな人」を自分の中に何があるから、この体験があるのかと知的に理解することができると、他者に自動的に反応することができなくなり、自分自身の理解を深めることができる。自己理解から行動を起こすのと、その理解なくその人を責めたり、切り離そうとする反応から行動を起こすのとでは、生み出される現実はまったく違ってくる。
日々の生活の中での「嫌いな人」の出現は自己理解の機会。人を変えようとして分離して終わる関係性を、自己理解することでつながりの関係へと変容させることができる。

5,反応の構造
反応とは不快感と共に瞬間的に起こる、自分で制御できない分野の衝動。自動的に起きているためなぜ「反応」しているかにふつうは無自覚。
「反応」が自分と他者との関係性の間に「分離」を作り出し続ける元になっている

自分に起きていることについて、起きている現象としてありのまま認知できない。私たちの内側には何かしらのフィルター(思い込みや信念)があり、外側で起きていることを目にした、耳にした瞬間に、そのフィルターを通して外側に起きた出来事を認識している。私たちが「起きたこと」と認識していることには五感が感じ取れる起きたこと以外に内側にある価値観や思考、感情が入り混じり、脚色された解釈となって、それが起きている現実となる。
「事実」と「解釈」の区別をする習慣がない
まずは外側で起きている事実と、内側で思考した解釈を区別することからはじめる。音が聞こえた、目に見えた、といった五感で捉えた事実のみ認知すること。これが起きていることをありのまま受け入れる。

私たちはその体験から生じた自分の不快感から自分を切り離すために、思考を使った描写によって出来事を客観視し、頭の中でバーチャルなドラマを作る。
起きたことを思考で描写したストーリーによって触発された感情を、エセ感情。自分の思考から内側で作り出されたバーチャルなもの。反応している時このバーチャルな感情に囚われて行動している。
無自覚に反応しているときは、このドラマが現実と認識されてしまう。

自分の望む現実を作り出すために、まずは自分が反応していることを理解し、その構造に自動的にはまることから自由になる。
反応が人間関係の分離を現実に作り出し続けるエンジンである。

自分の外側で起こる不本意な現実や事象は、常に自分の中にある無自覚な「あること」を気づかせてくれる。
自己統合とは外側で何かをすることではなく、外側で起こる事実の体験から自分の中に無自覚だった「あること」に気づき、自分を理解していくプロセス。気づくためには「あること」を「あるがまま」に観て、感じる内省力が欠かせない。
反応が起きる度にその奥にどんな信念があるかを観ることができて、それに気づけたら、思考が反応から生み出すその解釈を真に受けず保留する、反応から行動せずに踏みとどまることができる。

何か起きて反応した際に、自分がそれをどこから見て、どこから聞いたのかを内省すること、「この解釈が生まれるには、その奥にどういう信念があるのだろうか?」を探求していく。どんな信念がその解釈を作り出しているのか、自分に問う。


6,内省と自己探求
フィルターのかかった思考の解釈が触発したエセ感情ではなく、リアルな体験から内側で生まれたエネルギー(感情・考え・身体感覚など)に意識を向ける。このあることを観る(観察する=意識を向けて感じ取る)ことで、自分に無自覚なフィルター(信念)に気づき、そこにあるはずだった願いに気づき(理解)、それに自覚的になる(無意識にあったものに光を当てて顕在意識に置く=統合する)ことができる
そして自分の本当の望みを理解し、そこから行動して作り出したい世界を自覚的に選択できるようになる。

「反応」と「自己探求」の内省のテクノロジーを体得できると本当に自分の中にあることだけを扱うことに意識的に留まることができる。

7,自己共感
外側で起きた出来事を触媒として、自分の内側には何かしらのエネルギーが動く体験が起きる。そこにあるものを感じる。外側で不快感をなんとかしようと事象に対して対処するのではなく、その出来事から自分は何を内側で感じているのかという体験から情報を受け取り自分について理解する。
その理解から自分の命に叶った行動をする。
これが源からの生き方。感じる(自己共感)×自己理解(気づき)

「あること」を感じるには身体に意識を向け、「何があるか?」と自分に問いかける。
考えても分からない。どうしたらその命が求めるものを外側の世界で体験として作り出せるのかに思考を働かせ、創造性を発揮することができる。
自分の望む現実を創造する生き方は、
自己共感→自己理解→自然意志→思考→行動

8,不快な感情の扱い方
感情は私たちに生来的に備わっている自分の命の願いをこの世界で現実化するための機能。自分の命の衝動から生まれるエネルギー。「感情」は外側の世界に何を求めているのかという内なる源から自分へのメッセージ。感情は自分の命を満たすためにあり、その命に応えるのは自分の責任。不快な感情のエネルギーは自分の命を満たすために必要な変化や新しい現実を外側に作り出すために使うことができる。

9,怖れの扱い方
怖れは抽象度がとても高い言葉の思考として存在している。無力感に起因する痛みを避けるために思考が作り出した概念。「なんとなくそういうことが起きるのではないか」という漠然とした思考の中に怖れは常に存在している。
やりたいわけでもないのに、なぜかやり続けてしまう行動や、「べき論」や正しさでやっている行動の大元には怖れが働いている。

何があってとしても決して無力ではない。自分がどこに立つのかは、自分で
選べる。
「すべては自分で作り出せる」
「現実は自分で作り出せる」
「起きてはいけないこと」は起こってもいい、「あってはいけない自分」があってもいい、としたら自分はどうあれるのか。自分の奥にある怖れの理解、そこに感じられる自分の痛みを理解することで、はじめてほかの選択肢や可能性を見出すことができる。

10,男性性と女性性の原理
日々数多くの行動をして生きている。だからこそ、その行動の1つひとつの起点は私たちの人生の質そのものに大きく関わっている。しかしその起点にとても無自覚である。
「自分は今、これをどこからやっているのか」問い続けることで、日々の体験の質は大きく変わる。
行動の起点が怖れか自己愛かに自覚的なることで、自分の命との一貫性を持って生きることができる。

11,3つの自己の統合
「幼子」「大人」「賢者」
幼子は大人になってもずっと私の中に存在している。これがあると自分の命に正直にいきれる。幼子のまま大人になるとその命の衝動を体験や形として現実化することができない。思考を駆使できる大人の自己も必要。
幼子と大人の自己がお互いに分離せずに対等につながっていることが発達のプロセスとして欠かせない。
幼子と大人の声をありのままに感じることで源に意識的に開いていく賢者の自己を育てられる。
自分の器の進化はこの3つの全ての自己の声を聴けるようになること、自分の中にあると認識できること

12,生存適合OSとメンタルモデル
自分が普段から繰り返しやっていることで不本意な現実につながっている行動パターンがある。これに無自覚なうちは自動的に痛みの回避行動に埋め尽くされた人生になる。自分のメンタルモデルとこのOSの構造が俯瞰して観えるようになると、現実に起こる不本意な現実に対する認知に変化が起こり、自分の行動を俯瞰して観られる内省力を身に着けることができる。


「本当はどう生きたいのか?」
「何をやるのか?」ではなく、「自分はどう在りたいのか?」
doingではなくBeing

自分の無意識にある、あきらめきれない願いを思い出し、痛みを避けて生きるのではなく、その願いを生きて体験する人生を歩む。

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