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だから認知症介護はできません【前編】~あなたの知らない裏(介護)社会~

 介護の仕事において、認知症の方との関わりは切り離せません。怒りの時期のケアが難しい方もいたし、認知であってもとてもかわいらしく穏やかな方もいました。

 けれど『認知症介護』の話をするとなると、どんな利用者さんの話よりも色濃く残っている体験が私の中にあります。母方の祖母の介護です。今なお、できれば思い出したくない過去です。

 しかしながら、どうしても祖母のことは思い出して、考えてしまうときがあります。


『果たして彼女は幸せだったのだろうか?』と―― 


 ひどい認知症だった祖母が在宅介護という中で亡くなるまでの期間はとても短かったけれど、同時に在宅介護のしあわせとはなんであるのかを考えさせられました。そして私が『家族に介護はできない』と言い切る裏には、この体験があるからこそです。

 虐待――そこまで追い詰められていく家族の話をしましょう。この話を聞いた後、果たしてあなたは『在宅介護』をどう受けとめ、どうしていこうと思うのか。きっとこの話はその一助になるはずですから……

★祖母と私

 私には三人の祖父母がいました。父方の祖父母と母方の祖母。母方の父は母が高校生の時に脳出血で倒れて亡くなったので、祖父の顔は遺影でしか知りません。祖父は開業医で、新しく大きな病院に建てなおそうと土地を購入し、その借金すべてを返済して間もなく他界したそうで、本当にあっという間の出来事だったそうです。
 それゆえ祖母はひとりで子どもを育てることを余儀なくされました。祖父が残した財産を削ることなく、自分で働いたお金のみで母と叔母を育て上げました。それくらい気も強かったし、お金のこともとてもシビアでした。祖父の財産をだまし取られたこともあったそうで、そのせいか、人に対する警戒心も強くなりました。父親がいないということでふたりの娘に対する躾もかなり厳しかったそうです。
 
 孫の私から見ても、祖母はとてもとっつきにくい人でした。私が父方の祖父母に非常に可愛がられていたこと、また母が私の弟を可愛がってくれるように頼んだこともあり、私と弟とでは祖母の可愛がり方が違っていました。それゆえ、とっつきにくいと感じたのかもしれません。
 厳しかったわけでもなかったし、嫌いというほどでもなかった。家が近所だったので、よく遊びにも行きました。両親が共働きで鍵を忘れて家に入れないときは、祖母の家まで行って親の帰りを待っていたこともよくありました。祖母が祖父の病院をスナックに改築していたので、夕方の時間帯のまだお客さんの来ないときに遊びに行って、オレンジジュースを貰ったり、雑誌を読んで過ごしたりしたこともありました。それなのにどんな話をしていたのか記憶がないのです。

 祖母は人嫌いで、仕事で人と接するとき以外は家にこもっていました。親族が集まる父方の新年会には気乗りしなかったはずなのに、娘の母が肩身の狭い思いをしないようにと毎年顔を出して、決して好きではなかった父方の祖父母と酒を飲みながら談笑していました。
 しかし実際は友人も少なく、実の妹である大伯母が心を許せる唯一の人にも見えた。そんな間柄にも多少なりとも確執はあったようですが、それくらいには周りにあまり人を寄せ付けない、そんな人でした。

 彼女の性格的なものに加え、私自身、本当にこの人に好かれているのか自信がなかったのもあり、話をしても長く続かなかったような覚えがあります。お洒落にも気を遣い、毎日亡くなった祖父の遺影の前で読経していた姿は今も鮮明に頭によぎります。

 そんな祖母はよく外食に連れて行ってくれました。彼女が台所で調理したものを食べた記憶はほとんどないのですが、かまぼこ入りのすき焼きを作って食べさせてくれたことだけは覚えています。すき焼きの鍋の上に浮かび上がる白肌のかまぼこはセンセーショナルで、唯一の記憶です。

 幼い頃の私は祖母に対する気持ちをどこに持って行っていいのかわかりませんでした。好かれたい気持ちはとても強くて、母が祖母の家に行くときは「私も行く」とよくついて行っていました。
 そうやって幼少期を過ごし、小学生、中学生、高校生となっても私は祖母に対する曖昧な気持ちを心に隠していました。この頃になっても、私と弟の差別はやみません。父方の祖父母に女の子がいなかったため、女孫の私を可愛がったように、母方の祖母もまた女の子しかいなかったことから男の子に対する特別な感情はとても強かったのです。
 ゆえに私はいつまでも弟と同じようには祖母には可愛がられなかった。そのことが亡くなった今も後を引く結果を生むとはきっと誰もが思わなかったに違いないありません。

 けれど私と祖母の間の埋めがたい溝は、このときにすでにできあがっていたのです。

★祖母の変化

 大学生になって時間のあるときに仕事を辞めた祖母の家に遊びに行くことがありました。すると決まって昼間なのにカーテンが閉め切られていて、真っ暗な居間のソファーにパジャマのまま横になっている姿を多く見るようになりました。
 
 ひとり暮らしだったから寝る時間も起きる時間も自由です。ビデオ鑑賞が楽しみで、好きな番組を録画しては観て過ごしていた。ひとりでの生活が長く、またお金に困っているわけでもなかった。ゆえに食事も自分で作るよりも、外食や惣菜を買って食べる毎日。お酒も好きでよく飲んでいたし、軽い糖尿病があったにもかかわらず、自己管理は興味のないことでした。
 彼女の口癖は『好きな物食べられずに死ぬより、好きな物好きなだけ食べて死にたい』と言うものでしたから、当然周りの忠告など聞く耳は持ちません。
 
 祖母の様子がおかしくなっていることに気づいたのは私が上の子を出産するくらいのときです。その前から、よく祖母の家に顔を出していた叔母が『認知症かもしれない』と言ってはいたのですが、母はそれを取り合わなかった。
 この頃は今ほど認知症は騒がれておらず、それこそ私たちも『年を取ってきて少しボケたくらいでしょう』と思っていたくらいで、危機感など抱いていませんでした。それに加えて頑固者だった祖母は、叔母が認知症の診断を受けようと話を持ち掛けたところで取り合いません。病院へ行くことをかなり拒否したそうです。
 
 おかしいと思いながらも私たちは『認知症』を否定していました。まさか祖母に限ってそんなことはないと。そうであってほしくない思いが強かったのかもしれません。
 しかし、祖母の言動はおかしいことが増えていきます。

 『金庫に入れておいたお金がない』
 『しまってあったパールのネックレスがない』
 『誰かに見られているような気がする』

 今思えばこれこそ認知症の中核症状そのものだったのですが、私たちは逆に本当に誰かに盗まれているのではないのか? 隠した場所を忘れてしまっているだけではないのか? と、頭の隅では疑問を感じながらも祖母の話を信じようとしていました。

 そんなある日、祖母が犬を飼いたいと言い出しました。以前飼っていた犬が亡くなって、ひとりでは寂しいと言ってきかない。出かける準備をし始めた祖母をとめるために私は母より一足先に祖母の家に向かいました。
 祖母をとめなくてはならなかった。亡くなった犬に関してもちゃんとした世話ができなくなっていた事実がありました。ご飯をあげたのかどうかもわからずに、日に何回もやっていた。そして餌の作り方も与え方も普通ではなかった。だから新しく犬を飼うなんて、まして子犬の世話なんてできるわけがないと私は祖母に「ダメだ」と言ったのです。


「なんであんたは反対するの! 私のことなんだから私が決める! あんたの意見なんかいらないんだよ!」

 そう言った祖母の顔は般若のようでした。こんなふうにだって私は今まで一度も祖母に言われたこともなかったし、怒声を聞くこともありませんでした。憎悪に溢れる目を向けて、怒りに身を任せて「あんたなんか顔も見たくない」と言われた私のショックは計り知れないものがありました。私も売り言葉に買い言葉で「私だって見たくない」と泣きながらその場を去ったくらいには――
 一緒に祖母を説得するためにその場にいた叔母が私の後を追いかけて

「病気なの。あれが病気なの。ああいう病気なの。だから気にしないで。本当にそう思っているわけじゃないから。それにあなたが悪いわけじゃない。だから怒らないで許してやって」

 そう言われても私には納得ができませんでした。ずっと好かれたかった。けれど好かれるどころか、祖母は敵意をむき出しにした。その姿に私は涙がとまりませんでした。たとえ病気が原因だと言われても、心から祖母に憎まれたようにしか私には思えなかったのです。

★崩壊に向かって

 それでもその後、病気を理解したくて、母から認知症の本を借りました。読めば読むほど症状は合致していました。そして認知症特有の妄想や幻聴が関係性のあまりよくなかった母と叔母の間の溝を次第に深くしていったのです。
 
 結局、祖母は子犬を飼いました。それで少しでも認知症が緩和されるのならと母が賛成をしたのです。子犬がどうかなってしまったときは致し方ないと腹を括ろうとまで言っていました。実際、ひとり暮らしは寂しいものです。犬がいることで話し相手ができて、やらなければならないことが増えれば認知症も抑えられるだろうと、そんな期待もありました。
 
 世話の仕方はめちゃくちゃでした。子犬が病気にならないかも心配になりました。それでも祖母はとてもしあわせそうでした。遊びに行ったときには子犬と一緒に私の子供とも写真を撮りました。曾孫の顔を見るのもとても楽しみにしていてくれて、訪ねればいつものように笑って出迎えてくれました。あの日、私に言ったことを祖母は忘れ去っていました。何事もないかのようにきれいさっぱりと――

 祖母は糖尿病だというのに、まんじゅうは箱ごと食べてしまうし、ミカンもネットまるまる一気に食べてしまいます。いくらこちらが制止しても、ひとり暮らしでは管理できません。宅配サービスを受けることで、欲しいものは届けてもらえる。外に出て行く機会も減っていきました。時折、シルバーカーを押して外食に行く姿を見かけると心配になりながらも、まだ外に出かけるだけいいだろうと安心していました。けれど安心は長くは続きません。祖母は迷子になるようになったのです。
 
 その事実を知った母は、祖母に携帯電話を持たせました。けれど使い方のわからない祖母がそれを身に着けることはありません。家で充電器にささりっぱなしの携帯電話を何度も何度も言って聞かせてやっと持つようになりました。時折掛かってくる電話は『どこにいるかわからない』というSOSもあったようです。
 
 徐々に祖母の行動はひどくなっていきました。朝の四時半にけたたましく実家の電話が鳴ります。祖母からです。掛かってくる時間帯も回数も内容も訳がわかないことばかりで私たちは戸惑いました。開口一番怒鳴られることもありました。次第にエスカレートする祖母の様子に周りの人間たちは不安を強くしていきます。
 
 ひとり暮らしは難しいと思いながら、それでも祖母の独居生活は周りが足しげく通うことでなんとかクリアしていきました。できなくなったごみの分別や部屋の片づけをしに行って、顔を出す機会を多くしたのです。気難しい祖母が同居などするはずもありません。お風呂だって入っていくのは怪しかった。やれていたことがだんだんやれなくなる中で事件は起こります。
 

 転倒です。
 

 祖母は再三注意されていたにも関わらずサンダルを履き、玄関先でつまづいて転倒。右足大腿骨頸部を骨折、入院することになりました。
 この頃、すでに深刻な認知症の状態にあった祖母です。医者から告げられたのは『手術はできかねる』という言葉でした。

 
 高齢である。
 認知状態がひどく、手術したとしてもその後のリハビリは満足にできないと思われる。
 感染症にかかりやすく、手術をしたことで高熱等に悩まされることが多くなる。

など、手術にはかなりのリスクが伴うと言われ、これ以上の独居生活は勧められない、同居で看なければ生活維持は難しいと言われました。

 母は手術をすることで祖母がつらい思いをするのなら、手術はせずに自分が看ると言い出しました。逆に叔母はセカンドオピニオンをし、熟練の医師が手術も可能、リハビリもなんとかなるし、最後まで面倒を看ると言ったから手術をして独居の生活へ戻そうと、母とは真逆の意見を打ち出しました。ここで姉妹の意見は真っ二つに分かれ、親族を巻き込んだ騒動へと発展していきます。

★届かない声

母は私にどう思うかを聞きました。私は答えました。


「在宅介護は賛成できない」


 答えの理由も話しました。認知症を看るのは並大抵のことではありません。大変なことになる。どんなに覚悟してもその覚悟が折れるような事態になりかねない。まして認知症を24時間看るのはつらすぎる。家族の負担を考えたら入所させるのが一番いいと在宅の大変さを必死に伝えました。

 しかし母は頑として聞き入れません。


「お父さんも○○(弟)も賛成してくれた。みんなで看ようと言ってくれた。私は介護技術もあるし、絶対にやりきれる。やるって決めたの。リフォームも(祖母のお金で)もうしちゃったから今さら戻れない」


 そう言って押し切られました。何回も話し合いましたが、話は平行線。祖母の体を考え、祖母が苦しまない未来が手術をしない道ならばと諦めることにしました。

 在宅介護の難しさをいくら必死で伝えたところで、わからない人にはわからない。私は声を届けるのをやめました。そうして、とめる人間のいなくなった母の暴走は続いていきます。祖母の弟たちに手紙を出して、叔母にはこういう裏があって祖母を自分のほうに引き入れたい。遺産目当てで心から祖母を思って言っていることではないと電話でも訴え続けて、味方に引き入れました。自然治癒を選択して回復を待ちます。

 しかし、そうは言っても車椅子の訓練はしなければなりません。せめて自力で排泄できるようになって貰わねばならないと、リハビリ病院へと転院することになりました。

 うまくいきませんでした。祖母は帰りたいと車いすで院内を徘徊。当然のことながらリハビリどころの話ではなくなりました。自力での排泄が可能になるところまで回復することなく、他の患者さんの迷惑になるからと退院を促され、あれよあれよという内に祖母は住み慣れた自宅へ一度も戻ることなく、母と生活せざる得なくなったのです。
 
 こうなった以上、もう腹を括るしかありません。やるしかないとなったとき、私も協力する旨を伝えました。私も離婚して間もなくであったため、どれほど手を貸せるかもわからなかったのですが、大変なときや自分の手が空いたときならば祖母の面倒を看ると告げて、家族での在宅介護がスタートします。

 けれど、それも甘い考えでした。

 母は介護保険の申請をどこにすればいいのかも知りませんでした。特養に長く勤めていた母は身体介護はできますが、他のことには疎かったのです。なにができて、なにができなかったかを知らない。ヘルパーは本人のための支援はできますが、家族と同居では身体介護しか使えないこともこのときに初めて知ったくらうです。見通しが甘かったというより、母の祖母への思い入れが強すぎて、その思いを誰も曲げられなかったがネックとなったのです。


 女手ひとりで育ててもらった恩がある。
 施設介護の実態を知っているから、入れるのが可哀相。
 ひとり残った親の面倒は最後まで自分が勤めあげる。
 介護ノウハウはある。できないわけがない。


 その思い込みを打ち砕く話術がなかった私にも責任はありました。しかし、たとえ話術があったとしても、現実を知らない母にはきっと私の言葉は届かなかった。諦めさせられなかった自分も悪いのだからと、この介護を見守ること、そしてできうる限り手を尽くそう……

 しかし現実は悲惨の一途をたどっていきます。

★たとえプロであったとしても


 母と弟は日中仕事のため、定年退職で家にいる父が日中の祖母の介護をします。自分の親の時はできなかったから、せめて残った義理の母は一緒に面倒を看るよという気持ちがあったと言います。そして母の思いをどうしても遂げさせてやりたいとも。自分はできなかったから、せめて母には悔いがないようにさせてあげたいと――けれど現実はそんなキレイごとで済みません。
 
 祖母の着替えや車椅子の移乗は出勤前に母がやっていくので、その後を父は看ればいいだけでした。日中のトイレ介助、眠いという祖母を日中車椅子で起こしておくのが役割。そしてこの見守りの間に仕事へ出ている家族の食事と糖尿病の祖母の夕食の支度をしなければならなかった。買い物は祖母がデイに行っている曜日に限られた。

 けれど父は母にその他にも用事を頼まれ、やらなければならない。一分もたたないうちに同じことを繰り返し聞いてくる祖母と日中ずっと一緒にいなければならない。認知症のため、自身が骨折していることもわからない祖母は、気になるものがあると立とうとし、車椅子から落ちてしまうこともよくありました。目は離せません。もっと大変な事態になるかもしれない。

 父の性格を考えるに、これはどうやってもうまくいかないだろうと私は思っていました。私にも、そして私の子供にも、忙しかったり、自分の気に障るようなことがあったりしたとき、父は激昂し、よく怒鳴るような人でした。そんな人が心穏やかに認知症の祖母と向き合って、介助できるのかと心配でならなかった。

 けれど日中介護は二人きり。誰の目もありません。実際にはどうだったのかも、今は知る由もありません。

 本来なら、日中は起こしておかなければならないけれど、いろいろ家のこともやらなくてはならなかった。だからずっと看ていることもできずに車椅子なり、ベッドなりへ寝かせることもよくあったようです。すると昼夜逆転の現象が起きて、母が帰宅してから夜の介護を担当する頃に行動が活発化しました。その上、祖母はどんどん病気が増えていく。

 はっきりとした原因がなく皮膚にかゆみを伴う赤い斑点状のものができていく類天疱瘡(るいてんぼうそう)という病気になって、強いかゆみを訴えるようになりました。ステロイド剤を塗る作業が増える。膀胱不全から自力での排尿が難しくなって、バルーンを装着。陰部から管を通して自然に尿を出すようにしなければいけない。

 だが、この管が痛くて寝ている最中や、出掛ける車中で、いやだと思う気持ちのまま引き抜いてしまう。とにかく食事に対する欲求が強くて、家の中を物色し、炊飯ジャーを勝手に開けて食べてしまう。このころ食事制限でなんとか糖尿病の悪化を防いでいたから、炊飯ジャーにお米を残してはおけないし、お菓子類はとにかく隠さないといけなくなって、手間暇がさらに増えていきました。
 
 ある日、父がどうしても外出しなければならない用事があり、その日数時間、祖母の面倒を看ることになりました。昼ごはんは配食サービスがあるので、それを温めて食べてくれればいい、私の分もあるからということで引き受けました。
 トイレ介助も車椅子への移乗も特に問題はありません。むしろ祖母は私に何度も「申し訳ない」と頭を下げました。『気にしなくていいから、これくらいなんともないから』と返しても、祖母はとてもつらがっていました。

 昼の時間になり、食事を用意する。時間さえあれば、ごはんはいつかと聞く祖母をなだめながらの昼食時間です。
 しかし食事のことになると祖母は人格が変わりました。お茶碗に盛りつけたお米はすぐになくなり、お替りと言われました。「お替りはちょっとできない」と断ると怒り出しました。


「誰がそんなことを決めた! 誰がそんなことを言った! なんでそんな意地悪をする! 私を殺す気か! いいから黙ってよそえ!」
「だからそれは無理なの。ほら、こんなにおかずがあるんだから」


 何とかなだめようと思っても祖母は聞き入れません。これが認知症だと頭ではわかってはいたけれど、私はヘルパーさんではいられなくなりました。頭の血管がブチっと音を立て


『なんだ、このクソババアは。できないもんはできないって言ってんだろうが』


と心の中で毒づきました。積もりに積もっていた感情が、一気に心の奥から噴き出してきた――そんな感じです。憎らしく思いました。敵意を向けられた瞬間、手をあげたくなる衝動に駆られました。

 しかし、そんな気持ちを押しとどめて、ほんの少しだけごはんをよそって渡すと、満足したように祖母は食べ続けました。

 しばらくして帰宅した父に話すと逆に怒られました。それはやってはならない、なにがあっても許してはならないと――当然です。

 けれど私にはそれをどうにかできないどころか、祖母に対して言いようのない苛立ちを感じました。仕事では上手くできるはずなのに、私は自分の感情をコントロールすることができなかった。プロ失格だという失意と祖母への怒りを抱いたまま、実家を後にし、その後あまり足を運べなくなりました。

 そしてこの後、私たちの認知症在宅介護は悲劇へと恐ろしいスピードで走っていくのです。


★前編まとめ

 今回は私の祖母との思い出を最初に話したのは、関係性がよくない介護は簡単に怒りに囚われてしまうという事実をお伝えしたかったからです。そしてたとえ介護を仕事としているプロであったとしても、家族の介護となってしまうと、理性が簡単に飛んでしまうということについても同時に知っていただきたかったのです。ゆえに『家族に介護はできない』のです。

認知症介護

 さて、後編は『虐待』の実態をお話いたします。どのように崩壊していくのか、それをわかっていただいたうえで、在宅介護、施設介護等、自分たちにあった介護をよくよく検討していただければ幸いです。

 介護する側もされる側も、ともにしあわせでありますことを願ってやみません。

 では、次回の後編もどうぞお楽しみに!


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