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読書の秋 自分がサハリンを目指した理由

自転車旅行で海外を目指す場合、アメリカとかヨーロッパとか東南アジアの旅行記をウェブサイト上で見ることになると思います。日本から近い場合であっても台湾と韓国が多く、ロシア連邦サハリン州に行ったという事例はあまり見受けられないと思います。2022年現在でこそ、少しずつサハリンに関するサイクリストの旅行記録が見られるようになってきましたが、最初にサハリンを目指した2006年には自転車でサハリンに行ったなどというウェブサイトは皆無でした。ここでは1冊の本を取り上げたいと思います。

「樺太一九四五年夏:樺太終戦記録」という1972年に出版された本です。現在では廃刊になっているので手に入れることは難しいです。この本は愛知県図書館で借りて読みました。第二次大戦中は比較的平穏だった樺太が慌ただしくなったのは終戦直前に旧ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して日本に攻め入ったときでした。樺太でもポツダム宣言受託後に旧ソ連軍の砲撃を受け、「真岡郵便電信局の九人の乙女」に知られるように悲惨な出来事が幾多にも発生しました。この本にはそのような混乱の記録が残されています。

開法寺2

足立家は寺院の檀家で、第二次大戦前には同じ宗派で樺太に開法寺という寺院があったそうです。開法寺も多分に漏れず艦砲射撃を受け、本堂は焼け落ち住職様はなくなられてしまいました。様々な資料を眺めるうちにどんなところなんだろうなあと興味を持ったのがサハリン行きの原点です。

現地の様子は既に書き表している投稿があるので詳細は省略しますが、現地に到着した時は無事ホルムスクに到着できたことに感謝して町全体に向かって手をあわせました。お寺の正確な位置はもはや面影がなく、まったく把握できませんでしたが、当時を思い浮かべることができたような気がします。

日本時代建立の橋

サハリンには日本統治時代における生活の名残が少しだけ残っています。マカロフの少し南、ポレーチェという集落には日本時代に架けられた橋が2007年かろうじて残っていました。

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コルサコフのホテル「アルファ」の目の前にはこんな石臼?が残っていました。(2018年撮影)

船と入国管理局を行き来するバス

2006年にコルサコフから稚内に戻ってくる船の中で、終戦当時豊原(ユジノサハリンスク)で生活して、当時紋別に住んでいた人と話をしました。当時8月下旬に豊原が旧ソ連軍による空襲で焼かれて、戦禍のなか逃げ延びるのに大変だったそうです。

総括になりますが、歴史は忘れ去られてしまうと文字に残していたとしてもイメージに欠ける文献になってしまうと思います。当時の人々に直接触れたわけではありませんが、文献に触れたり、船の中で話を聞いたり現地で自分なりに感じたことは忘れないでいようと思います。

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